2022/04/16

●《映画を作るのは私たちではなく、世界のほうが悪い映画として私たちに現れるのだ》と書いたのはドゥルーズだが、世界中がとんでもなく「悪い映画」となってしまったような現状に抵抗するやり方として、さし当たって「よい映画を観る」ことくらいしか思いつかない。

(上の引用は、まずは三浦哲哉『映画とは何か』からの孫引きだが、この引用部分が本来置かれているドゥルーズ『シネマ2』の第七章「思考と映画」を読み返していたらおもしろいことが書いてあったので、以下、メモとして引用する。)

●思考不可能なものの現前」こそが「思考の源泉」であるというロジック

《思考が、それを生み出す衝撃(神経、脊髄)に依存するということが真ならば、それはただ一つのことしか、つまりわれわれはまだ考えていないという事実しか、全体を考えることと同じく自分自身を考えることの不能性しか、石化し、脱臼し、崩壊した思考しか、考えることができない。いつもきたるべきものである思考の存在、まさにこれをハイデガーは普遍的な形式のもとで発見することになるが、アルトーもまたこのことを、もっとも特異な問題として、彼に固有の問題として生きるのである。ハイデガーからアルトーにたどりついて、モーリス・ブランショアルトーに、何が思考させるか、何が思考するように強いるのか、という根本問題を見いだしていた。つまり思考するように強いるものとは、「思考の無能力」であり、無の形象であり、思考されうる全体が存在しないということなのだ。ブランショがいたるところで文学において診断するものは、また映画において顕著に見いだされる。一方には、思考における思考不可能なものの現前、そしてそれは同時に思考の源泉であり、思考の障害でもある。他方には、思考者における別の思考者の果てしない現前、それは思考する自我のあらゆるモノローグを打ち砕くのである。》

●「映画」に「夢」を対置するのではなく「不眠」を対置するシュフェール

《悪質な映画は(そしてときには良質の映画でさえも)、観客に注入される夢想という状態で、あるいはわれわれがしばしば分析したように、想像上の一体化でことたりてしまう。しかし様々な映画作品をめぐる一般的ではない映画の本質とは、思考を、他の何ものでもなく思考という機能だけをより高度な目標とするのだ。この点で、ジャン・ルイ・シュフェールの書物の力とは、まさにこの問いに答えたということなのである。どんな点で、どのようにして、映画は、まだ存在しないことを固有性とするような思考にかかわるのか。映画のイメージは、それが運動を逸脱させたこと自体を引き受けるとき、世界の中断をもたらし、見えるものに、ある動揺をもたらすと、彼はいっている。この中断や動揺は、エイゼンシュテインが望んだように思考を可視的にするどころか、反対に思考において思考されないものに、同じく視覚において見えないものにかかわるのである。それはたぶん彼が信じているように、「罪」ではなく、偽なるものの力能である。映画において思考は、固有の不可能性と対面し、それにもかかわらず、そこから一つのより高度な力能あるいは生成を引き出す、と彼はいっている。また映画の状態は、たった一つだけ等価なものをもっている、と付け加えている。それは想像上の一体化ではなく、映画館から出るときの雨であり、夢想ではなく、闇であり不眠である。》

《シュフェールにしたがえば、運動よりも、むしろ世界の中断によって、見えるものは、対象としてではなく、たえず思考のなかに生まれては逃げていく行為として思考に与えられる。「ここでは見えるようになった思考が重要なのではなく、見えるものは、思考の最初の不統一、あの始原的性質によって影響され、救いがたいまでに損なわれている」。これは映画における凡庸な人、つまり精神的自動機械、「機械的人間」、「実験用マネキン」、われわれのうちの浮沈子(うき)である。それは、われわれの頭の背後にしか存在しない未知の身体であり、その年齢はわれわれそのものでも、子供時代のそれでもなく、少しばかりの純粋状態の時間に属している。》

●運動や有機的能動性ではなく、「思考の不可能性」や「世界の中断」こそが(もちろんそれらは「思考の障害」であるが、それと同時に)「思考の源泉」であり、そのような思考が生じる「精神自動機械」こそが未知の身体の可能性である。ドゥルーズの「現代映画」への評価はこの点に賭けられているのだろう。とはいえ、この後に唐突に出てくる「世界を信じること」を、どう受け止めたらよいのかはよく分からない。

《精神自動機械装置は、見者の心的状態の中にあり、この見者は反応することができないので、つまり思考することができないので、なおさらによく見、遠くまで見るのだ。それなら微妙な出口とはどんなものか。別の世界を信じることではなく、人間と世界の絆、愛あるいは生を信じること、不可能なことを信じ、それでも思考されることしかできない思考不可能なものを信じるようにして、それらを信じることだ。》

●「浮沈子(ふちんし)」って何だろうと思ったが、なるほど。

浮沈子(ふちんし)って何だろう? :広島市こども文化科学館

(追記。「思考不可能なもの」あるいは「思考において思考されないもの」というのを、超越的なものと考えるのではなく、見えるもの(図)を見えるようにしている見えないものとしての「地」と考えるのがいいのではないか。「思考不可能なものの現前」こそが「思考の源泉」だというロジックも、図の安定性を崩すような「地=思考不可能なもの」の地殻変動が、「図=思考可能なもの」を揺るがし変化させると考えられる。「世界の中断」というのも、中断により「図」に空隙をつくることで、一瞬、「地」の存在が露呈される、と考えられる。また、浮沈子というイメージも、思考不可能な外部からの圧力が、自動的に「内部状態=思考」を変化させる例として考えられる。ここで「地」とは、「図と地」の「地」であると同時に、「図と地」というゲシュタルトを成立させる、更に一階層下の《「図と地」という図》の「地」でもある。浮沈子でいうと、「浮き沈みするものの内部状態=図」と「ペットボトルを満たす水=地」との関係を成立させる、「ペットボトルという枠と、その外の空間からの圧力=地」がある。)