●古本屋で『ゴッホの花』(西村書店)という本をみかけて買った。この本は、ゴッホが描いた絵の、植物の部分だけを勝手に拡大してトリミングして載せてあって、画集としては全然駄目なのだけど、ページをパラパラとめくっていくと、「絵」としてどうだ、というより前にある、ゴッホが植物を追って、植物に迫ってゆく息づかいのようなものが感じられて、見入ってしまう。変な言い方だけど、ぼく自身、動物に憑依する(憑依される)いうよりも、植物に憑依する(憑依される)という傾向が強くて、そして、明らかにゴッホもそういう人なのだと思うのだ。例えば、春になって寒さがゆるみ、空気のなかに淫らな感触が混じってきて、そのようななかで木々に若芽が出、花がこぼれるように開きだすというような、まさに「萌える」という感じを、植物を取り囲む空気の振動や濃厚な匂いまで含めて描き出せる画家は、ぼくの知っている限りではゴッホしかいない。(ゴッホの描く、アーモンドの木や桃の木や栗の木に花が咲いている絵の、何とも言えないざわついた感じ。)それは、花や植物を描いていると言うよりも、その場を支配し、その場に偏在する「萌える」という力そのものを描いているといえると思う。あるいは、地面から生え出て、重力に逆らって上へと伸び、葉を繁らせて広がり、葉と葉を厚く重ね、そして地面を埋め尽くすほどに繁殖する、そのような植物(草)の生育する力は、ゴッホ自身の内面的、身体的な(制御出来ないほどの)うごめく力と明らかに共振しており、キャンバスの上に、いくつもの力が濃厚に絡み合ってうねるような、何と言うか「ヤバい」感触の漲る、喧噪に満ちた力の場を形成させるのだった。(ずいぶん前に観た、入院した精神病院の庭に繁る植物を描いた、葦ペンのドローイングの素晴らしさは、今でも忘れられない。それはインクで描かれたドローイングなので色彩はないのだが、そこには人間の身体が受容できる=耐えられる量を超えるくらいの過剰な光が感じられた。何と言うか、光や力が空間を埋め尽くして潰してしまう感じなのだ。)冴え冴えとした色彩と、空間のなかに拡散的にひろがるような、複雑な形態と方向性をもつアイリスと、その対極にある、濃厚で重ささえ感じられる(色彩自体に重さが含まれているような)色彩の、求心的でシンプルな、原始的な力動を感じさせる形態をもつひまわり。あるいは、ほとんど視覚によって安定的に把捉することが不可能であると思われるくらいに不安定な、ピンク色のバラの花の色彩。これらの植物は、勿論、何かを象徴するものではないし、人を幻惑し幻想へと誘うものでもない。そして、視覚的な意味でのリアリズムでもないかもしれない。ここにみられるのはおそらく、植物が生育する(あるいは植物を生育させる)目に見えない(多数の)潜在的な力の絡み合いであり、その力と、画家自身の身体の基底的な部分を形作り動かしている力との、共振であるように思う。このような絵(植物)は、セザンヌやマティスでも描けていない。(マティスの植物はもっと装飾的だし、セザンヌの絵は「まさに花が咲こうとする時の空気の震え」のような不安定な瞬間を捉えない。)仮に自分には出来ないとしても、「絵」はここまでのことが出来るものなのだ、ということを肝に銘じて絵を描かなければいけないと感じるのだった。
●東京で観逃したゴッホ展を、大阪の国際美術館まで観に行こうと思っていて、しかし、せっかく関西まで行くのだから他の展覧会も観て回ろうとか考えて、そんなこんな思っているうち、思うだけで今日までズルズルときてしまったのだが、『ゴッホの花』という画集を観て、今週の中頃には無理してもなんとか大阪まで行って、とりあえずゴッホだけでも観ておこうと思うのだった。