散歩をしていると感覚が開かれるように感じるのは...

●散歩をしていると感覚が開かれるように感じるのは、おそらく、とりあえず目的がなく、そして差し迫った身の危険を感じなくても済む状況に置かれていることによってだと思う。そこには特定の方向への注意力の集中がなく、その分、様々な方向へとはり巡らされた、ゆるくて拡散的な感覚受容網のひろがりがある。そのような時、人は、例えば自分が歩くペースのような、自身の身体的な出力を、自身で入力して(感じて)いると同時に、周囲の環境によって与えられる刺激に対しても開かれていて、つまり、自身の身体と環境とをほとんど同等なものとして感じているように思う。つまり、自身の身体を世界のひろがりとして感じ、また、環境のひろがりもある程度身体の内部であるかのようにも感じ、自身の身体的な律動を、世界のなかの様々な律動の一つとして感じている。
●対して、ある明確で差し迫った目的があったり、あるいは身体に何かしらの危険が迫っている徴候が濃く立ちこめているような環境に身を置いているような場合、周囲の環境や「私」は、それとは全く違ったあらわれ方をするだろう。環境から与えられる様々な刺激は、目的(あるいは身体の危険)へと関係する可能性によって取捨選択され、秩序づけられ、配置される。目的(自身の危機)に関連すると思われる「徴」については、些細なものでも敏感に察知され、そうでないものは捨てられる。「私」の存在はその目的(危機の回避)によって外側から輪郭が与えられ(「私」は他から切り離されて限定され)、「私の行動」は目的(危機の回避)に従って形作られる。「私」が、常に目的(危機)によって限定づけられ、形作られざるをえない状況は、「私」にとって決してよい環境とは言えないだろう。しかしそこには確実に、環境への抵抗によるぴんと張り詰められた緊張があり、それによって「充実感」のようなものが生じ、それは「私」に自己の存在(の輪郭)をしっかりと感じさせ、生きる「手応え」のようなものをも生じさせるだろう。そしてその「充実感」はしばしば中毒となり、目的(危機)が去った後の、目的(危機)のないところに、目的(危機)の幻影を無理矢理に生じさせもすることもある。(つまり、「充実感」を生んだフレームを、それに対応する現実が変化してしまった後でも維持し、固定させしまう。)
●ぼくはこの「充実感」を必ずしも「良くない」ものだとは思わない。と言うか、人はこのような「充実感」をどうしても必要としてしまう、と思う。(充実感は容易には脱構築されない。)しかし、このような「充実感」への中毒=依存は、しばしば現実(=内容)を隠蔽して、そこから切り離された、ある(充実感をかつて与えてくれた)「フレーム」をひたすら強化することに貢献してしまいがちだと思う。人は「充実感」を求めるあまり、現実=内容に目をつぶり、「フレーム」の方を信仰することになる。それは空虚なフレームにしか過ぎないと言ったとしても(それを「理解」していたとしても)、「充実感」への中毒=依存から自由になれるわけではない。困難な状況にいて、余裕のない人ほど、強く「充実感」を必要とし、それを求めるしかないので、必然的に「フレーム」は増々硬直化してしまう。(そして、硬直化したフレームは、暴力へと転化もするだろう。)