●『ヴィタール』(塚本晋也)をDVDで観た。それを、作家としての一貫性と言うべきなのか、それとも貧しさと言うべきなのか、今まで観た三本の塚本作品(『鉄男』『六月の蛇』『ヴィタール』)はすべて同じ枠組みで出来ていて、極端に言えばすべて同じ作品と言うことさえ可能だと思う8これについて10日の日記に書いた http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100710)。この妄執に近い一貫性は、結果として、作品の細部を単調にしてしまうという傾向をもってしまっているように、ぼくには感じられるのだが(例えば、ぼくには『ヴィタール』の女性キャラクターの造形はどうしても類型的で退屈に感じられてしまう)。
ただ、『ヴィタール』では、他の二作より構造が複雑に捻れていて、その分ぼくには面白い。『鉄男』『六月の蛇』では、こちら側の世界にいるのがカップルであるのに対し、向こう側からこちら側を操作しようとする者は孤独であり、こちら側の人物と向こう側の人物とは、根本的には同類で、最終的には相似形をなすものの(真のカップルはこちら側と向こう側なのであり、こちら側のカップルは仮のものでしかない)、それでもまず最初は、ふたつの世界の人物は対立的な関係としてあらわれている。
だが『ヴィタール』では、こちら側の世界と向こう側の世界とははじめから同等で相似形であり、どちらにいるのも同じ主人公(私)であり、どちらもカップルとして存在する。こちら側にいる男-私と死んだ女(+その影としてのもう一人の女)というカップルは、向こう側にいる男-私と女のカップルと鏡像的な関係にある。交通事故によって、男は記憶を失い、女は命を失う。こちら側の世界で、記憶を失った男が女の死体を解剖することによって女と関係し、向こう側の冥界のような場所では、男は死後の女と会っている(なんて倒錯的な関係なのか)。ここで特異なのは、男にとって女との記憶は交通事故の時のものしかなく、だから向こう側の女は男の記憶ではないということだ。男は、記憶のなかで女と会うのではなく、(解剖することと同等の)新たな経験の生成として、どこでもない場所で死んだ女と改めて会っているのだ。おそらく塚本晋也においては(『鉄男』や『六月の蛇』でも同様だと思う)「記憶」は禁じられているか、もしくは信用されていない。極端な言い方をすれば、すべては交通事故からはじまっており、交通事故以前の世界は存在していないかのようなのだ(そう言えば『鉄男』も交通事故からはじまる話だった)。
だが、この二つの世界の関係は同等であることによって平板であり、これは他の作品の感触とは異なっている。『鉄男』や『六月の蛇』においては、近いこちら側に対して、遠くにある向こう側の方がよりリアルであり、それは押しとどめようとしてもこちら側へと浸食してくる強い力をもつ(しかし、こちら側に出てきてしまうと単調になる)。対して『ヴィタール』では、南の島でダンスをし性交する向こう側の世界のイメージは凡庸ですらあり、こちら側へと攻め込んでくるような強い力は感じられない(冥界の形象化という意味でも、例えば『ウルトラミラクルラブストーリー』に遠く及ばないだろう)。確かに、向こう側の世界がひろがるに従って、こちら側の男がぼんやりと自失する時間が増えはするのだが、それによってこちら側の男に絶対的な変化が起こるわけではない。
結論から言えば、おそらくこの二つの世界の裏表の対立-関係は偽のもの、あるいは表面的なものに過ぎないのだと思う。死体を切り刻むこちら側と、南の島の冥界である向こう側は、裏表であるよりも、同等な、二つに分裂した同じ「こちら側」なのだ。それに対し、より遠くの、よりリアルな向こう側が存在する。そしてその向こう側は、この作品では明確な形は与えられていない。
この作品で、死んだ女の存在がより強く、リアルに感じられるのは、切り刻まれた死体としてではなく、南の島の冥界でダンスする姿でもない。そうではなく、死体が自らの意志で男のものへやってきたというその「気配」であろう。女の死体が男の検体となったのは、たんなる偶然であるかもしれないし、それとも、記憶を失った息子を思う権力をもつ父の差し金であるかもしれない。しかし男は、死んだ女が自らの意志で自分のもとへやってきたという感触を持っている。それは普通に考えれば妄想でしかない。しかし、その決して確かめようのない妄想-感触こそが、ここでの「向こう側」から伝播される呼び声なのではないか。男は、女の父から、事故後に一時的に意識を取り戻した女が、自ら検体となることを志願したという話を聞き出す。このエピソードは決して確証とはならないものの、男の感触を裏打ちするものにはなり得るだろう。男は、女の頭をくりぬき、その脳を執拗にスケッチする。しかし、その脳をいくら詳細に切り裂き、分析しても、そのなかで起こっていたこと(もしかすると、今もなお起こりつづけているかもしれないこと)を、捉えることは出来ない。それは、すぐ「そこ」にありながら、遙か遠くにある。だが、その遙か遠くで起こっている何か(意志)こそが、この死体を、自分の前に運んできて、死体を切り裂かせ、それを詳細に眺めさせているのかもしれないのだ。男は、その遙か遠くからの呼び声に従って、目の前の死体を切り刻んでいるのだ。その行為は、男に医者となることを決意させる(つまり男を変化させる)。
この、遠く遙かな、確かめようのない感触-妄想は、もう一つ別の感触-妄想を男にもたらす。今、自分が存在するこの世界(こちら側も向こう側も含めて)が、火星に放置されて、今にも壊れようとしている機械(人工知能?)が最後に観ている夢に過ぎないのではないか、と。しかしこれは、火星であったり、機械であったりする必要はない。この感触は死んだ女のからだを切り刻み、そのメカニズムを観察しスケッチすることから生まれたものであろう(というか、それと正確に響き合っているだろう)。遠く遙かなものである点において、目の前にある女の脳も、火星にある機械もほとんどかわりはない。目の前の女の脳を切り裂いている自分が、実は、今、切り裂かれているその脳の作用によって生まれ、そのなかで生きているのではないかという感触(おそらくこの感触こそが、『鉄男』や『六月の蛇』でも共有されているものなのではないだろうか)。
この、遠くにある向こう側の感触は、この作品では、脳(を描いたスケッチ)としてこちら側の世界に現れる。あるいは、女の死体そのものが、それなのかもしれない。
ラストの印象的な言葉。もし、死んだ後、何年もしてから、一度だけ生きている頃の最もよい記憶を思い出せるとしたら…。しかし、死んだ後に、それを思い出すのは誰なのか。そもそも、その言葉を「あなた」に向かって語りかけているのは誰なのか(それは記憶ではない)。遠く遙かな向こう側にいる「誰か」とは、このような誰かのことなのだと思う。