●朝まで仕事をしていたので、どうしても起きられず、ギャラリーαMの小林耕平・山形育弘デモンストレーションを観に行きそびれてしまった。一応、間に合う時間に目が覚めはしたのだけど、強い眠気に勝てず、布団から出ることが出来なくて、また寝てしまった。
●仕方がないので、「攻殻」の「ソリッド・ステイト・ソーシャリティ」を観ていた。これは、押井版の「攻殻」ときれいに対をなす作品だと思う。
神山版「攻殻」が、あくまで「強い個」たちによる物語だということは昨日、一昨日に書いた。その個は、近代的な、自律的な主体性というのとは違って、ネットワークの錯綜のなかから自然発生的に浮上する結節点のようなもので、いわば「ネットワーク上の強力なハブ」というような意味での「強い個」なのだが。とはいえそれはたんなる個ではなく強力な個(エリート)であり、物語は、高い「個としてのポテンシャル」を讃え、それを求める。だから、錯綜するネットワークのダイナミズムのようなものはあまり上手く捉えられず、「大衆」はある種のノイズのような表象しか得られない。
攻殻」というシリーズはそういう作品であり(内務省という現在は存在しない中央集権的な省庁に所属する部隊の話であり、公安九課とは、中央集権=一と、ネットワーク的な錯綜=多との中間にある組織で、そこに所属する「個」たちだから、あらかじめ「社会性」を内包している)、それはそれで十分なのだが、しかし「攻殻」以降の作品において、神山健治が、今度は大衆というか、市井の側にいる「個」の視点から話を語り出して、ある社会性のようなものに到達しようとする時、どうしてもそのブリッジが上手くいかないということになる。「一」によって「多」を表象することの限界に突き当たる。これは神山健治だけの問題ではなく、特権的な人物の上から目線ではない形で、フィクションで「社会性」を表現する方法を、人はまだよく知らないのだと思う(そしてそれはおそらく「フィクション」だけの問題でもない)。
そしてそこに、ある突破口のような可能性を見せてくれたのが「ガッチャマンクラウズ」だと思う。「攻殻」から「クラウズ」へというこの流れを(15日の日記に書いた)今度の発表で、どうやったら上手く整理して話せるだろうかと考えて過ごした。「クラウズ」においてはガッチャマンが公安九課に当たると言えるのだが、「クラウズ」世界では確立した「強い個」が上手く機能しないで(ガッチャマンの活躍できる範囲は限定的である)、無数の「弱く小さな個たち」の流動性が優位に立つ(まず、「弱く小さな個たちの流動性」を物語として表象するという困難なことに「クラウズ」はある程度成功しているという点だけでも注目される)。だが当然、その状態はきわめて不安定であり、それが世界を破滅へと導く危機となる(オリジナル「ガッチャマン」では悪の組織のメンバーにつけられた「ギャラクター」という名は、「クラウズ」ではギャラックスというSNSの一般ユーザーたちに割り当てられ、つまり、滅ぼす者たち=滅ぼされる者たちという風になる)。それをどうするのかが、物語上の問題となる。
(「クラウズ」は、アラというか隙の多い作品であり、突っ込みどころは多々あって批判するのはたやすいのだが、それでも、この作品が開いた地平は重要だと思われる。)