2022/06/10

●『攻殻機動隊SAC_2045』のシーズン2がおもしろかったので、「Individual Eleven」を観直してみた。ネタがみっしり詰まって、それらがかっしり構築されている。改めて、ポリティカル・フィクションの傑作だと思った。

でも、ただ一つ不満というか残念なのは、クゼの最終的な革命のビジョンがおもしろくないということ。現在、ということではなく、この作品がつくられた2006年の時点でも、「難民たちの意識をネットにアップロードして上位存在になる」というアイデアはすでに手垢がついていたのではないかと思う(同じ年には『ゼーガペイン』がつくられているのだ)。

でもまあ、クゼのビジョンがつまらない(説得力がない)からこそ、タチコマたちが独断でそれを裏切ることができるのだが。

その意味でも、『攻殻機動隊SAC_2045』は「Individual Eleven」の語り直し的な側面があるように思えた。長崎の出島に集まった難民も、「N」となった人々も、どちらも三百万人といわれるし、どちらにも、その三百万人と同時にネットで通じ合うことが可能なカリスマが出てくる。

「Individual Eleven」では、黒幕がいて、その黒幕の手駒としてカリスマがいるのだが、カリスマの独自性が黒幕と拮抗するくらいに強くなる。黒幕が、難民を排斥する方向で動くのに対し、カリスマは難民たちの独立を画策する。しかし、カリスマが黒幕の思惑とは真逆の方向に動くことが、却って黒幕の有利に働く。公安九課は(心情的にはクゼ=カリスマの側にいるが、立場的には黒幕の側にいる)どちらの味方でもなく、国民と難民の摩擦が大きくなることや、黒幕による怪しい動きを妨げるという目的で動く(クゼがプルトニウムを手に入れるのを阻止しようとし、また同時に、黒幕の目的を捜査し、難民の大量虐殺だということを突き止めて阻止しようとする)。

『SAC_2045』では、アメリカがつくったAI(1A84)が、アメリカの制御を離れて暴走する。そのAIによって、人知を超えたポストヒューマンと呼ばれる人間がつくりだされててしまう。アメリカはその事態を秘密裏に回収しようとする。アメリカは、ポストヒューマンさえ回収できれば日本がどうなっても構わない(「Individual Eleven」ではアメリカの原子力潜水艦が長崎の出島に向けて核ミサイルを撃ち、『SAC_2045』では東京に殺人ガスをまく)が、日本としてはそれではたまったものではないから、首相と連動して公安九課が動き出す。操作される対象(クゼ、AI)が、操作の主体(ゴウダ、アメリカ)の制御を離れるという意味では「Individual Eleven」と共通するが、「Individual Eleven」では、制御不能になった対象の行動を、もう一段上位から黒幕が利用しようとするので、ポリティカルなフィクションの複雑性という意味では一歩上にある。

「Individual Eleven」では、女性首相の内閣や与党内での立ち位置や、アラマキとの関係性が、かなり細かく描かれる(首相が---まだ手腕を掴み切れていない---若い女性であることで、アラマキが気を使ってやや手加減することが、一手遅れる原因となる、など)。『SAC_2045』にも、元アメリカ人だという若い男性首相という、設定としてはおもしろい人が出てくるが、設定の面白味をいまひとつ生かし切れていない感じはある。つまり、ポリティカルなフィクションとしては「Individual Eleven」の方が一枚上手だと言える。

とはいえ、『SAC_2045』の特徴は、革命がポリティカルではない水準で成功してしまうというところにある。表でポリティカルな闘いをやっていると思っていたら、その裏で着々と「脳内革命」が進行していた、と。シマムラタカシは一人の内気な少年に過ぎず、クゼのように特異な経験や並外れた意思によってカリスマなのではなく、テクノロジーと、降って湧いたように得られた莫大な計算力(計算量)においてビックプラザーとなる(ただ、シマムラにも「強い動機」はある)。この意外性によって、「Individual Eleven」におけるクゼの革命ビジョンのおもしろくなさが乗り越えられる。

(「笑い男」ではトグサが犯人と同化し、「Individual Eleven」ではクサナギと犯人=クゼが疑似的な恋愛関係にあるが、『SAC_2045』のポストヒューマンは超越的な存在であって人と並列的な関係にならない。とはいえ、トグサとシマムラタカシの間には通路が開かれ、トグサが一方的に取り込まれはする。)