歴史的にみると...

●歴史的にみると、どんな王道をゆくようにみえる巨匠でも、その人物が実際に現役として作品をつくっていた時には、決して安定した文脈のなかで自らの作品の正統性を保証されて作品をつくっていたわけではなく、他にも大勢居る作家の一人として、事前に確定された価値に守られることなく、自身の探求への懐疑や迷いをもちつつ、よるべない行いとして制作していたはずなのだ。つまり彼等は常に特異点として存在していたのであって、王道として存在していたわけではない。それが歴史へと回収され、事後的に文脈が整理された後から振り返ると、それがあたかも王道であり、ある種の正しさや法(象徴的な秩序)という原理に忠実であったかのようにみえてしまう。例えば、ピエロ・デラ・フランチェスカティツィアーノセザンヌが今観ても素晴らしくリアルなのは、西洋美術の正統な王道だからではなく、それぞれが特異点だからなのだし、グリフィスやフォードやヒッチコックが今観ても面白いのは、映画史上の正統的な古典だからではなく、それぞれが今もなお特異点としてあるからだろう。それらは決して正統派ではあり得ない何ものかなのだ。それを、王道や正統として観るのは、ただ、既に博物館に収納されたものを、後からやってきてお勉強する者たちだけだ。そういう人たちは決して芸術のもつ生々しさに触れることはないだろう。
だがしかし、以上のようなことが事実だとしても、こういう言い方はあまりに格好良過ぎるし、このように言うことは気持ち良過ぎる。(つまり、こういう風に言うことの気持ち良さに酔ってしまっているという側面がある。)
●例えば、芸術作品の適正な値段など、あってないようなものだ。(芸術におけるフェアトレードを、どのように構想すればよいのだろうか。)だが、アーティストが、作品をつくって生活するためには、それに一定以上の値段がつくことが必要だろう。しかしその値段を保証するものは、文化的な権威以外のなにものではない。そこには一定の「制度としての文化」が必要であり、それなしに芸術は存続されない。(現在の「現代美術」のように、作品があからさまに投機の対象となり、異様に値段がつり上がってしまったりすることもまた、文化の崩壊以外のなにものでもなく、それは、日本に美術市場がないということと同様に、芸術を不可能にする。)
樫村愛子の『ネオリベラリズム精神分析』では、再帰性を可能にするための恒常性として、「文化」の重要性が説かれている。そのような議論の正しさを充分に認識しつつも、ぼく自身としては、どうしても「文化」への敵意というものを感じざるをえないところもある。芸術作品によって得られる質は、常に文化に対する齟齬を生じさせる。文化とはどうしても、ある生々しさを殺す装置であり、見えているものを見ていないことにする代償と引き換えに、ある安定性(恒常性)を確保するようなものだろう。(ここで「恒常性」とは、「大きな物語」のようなものとは根本的にことなる。それは「物語」を可能にする基底として作用するようなものだ。つまりイメージ=物語そのものではなく、それを描き込むことを可能にする白くて滑らかな平面のようなもの。)だが、ここでぼくの感じる「文化」への反感は、例えば「父(先行世代)への反感」のような幼稚な感情の発露でしかないのかもしれないのだが。
このような文化への敵意それ自体が、ある程度の文化的な資本(の蓄積)によって可能になることは否定しようもない。文化とはあからさまに権威主義によって成り立つものなのだが、人は権威主義(つまり他者への依存や転移)を一旦受け入れることなしには「権威主義への懐疑(自立)」を発動させることさえ出来ない。(ネオリベラリズムと68年的な思想との同質性は、既成の権威への強い敵意にあり、反権威主義=透明性を徹底することによって逆に、「権威」を懐疑するために必要な「主体」を失う。)精神分析が教える苦い認識とはこのようなことだろう。
あらゆる権威とは無関係に、一人一人の人がそれぞれ自身の価値観によって自ら学び、他者と関係し、社会にアクセスする、というような「美しい」話は、充分な文化的資本(と、生まれつきの頭の良さ)を既にもつ人たちの間でしか成立しない。一定の、(他者への悪意を中和するために)蓄積され洗練された文化的装置(それは時には欺瞞ですらあり得るのだが)による調整抜きには、人はより良く他者と関係できない。(黒沢清の映画が描くように、一切の欺瞞を受け入れないとするなら、世界は敵意で満たされ、破滅に向かうしかない。)反権威主義、反資本主義を格好良く掲げてさえいれば、自らの正当性が保証されていると考えているような者は、東浩紀による強い言葉(人の能力には個人差があり、人は快楽と苦痛に弱い)の前で破れるしかないだろう。もともと、何かしら強いものへの反抗は、(父への反抗と同様)それ自体として強い快感をともない、そしてそれは攻撃や破壊への衝動と結びつき、中毒化する。(樫村晴香は、資本主義に反対する者は、それに「反対する」という利得(快感)を資本主義から得ていることに自覚的でなければならない、という意味のことを書いている。)「革命」はヒステリーの言説だと言うラカンや、道徳は、超自我による自我への攻撃性が中毒化したものだと書くフロイトの、クールで苦い認識を、美や快楽にそそのかされて手放してはならないのだと思う。
●とはいえ、美や快楽なしで人が生きられるはずはない。というか、苦い認識をクールに受け容れる(去勢)ためには、一方で、美や快楽を充分に享受している必要がある、とさえ言えるのではないだろうか。人間にとって芸術や性愛がきわめて重要であるのは、そのような意味においてだろうか。芸術や性愛のもたらす美や快楽は、それ自体として文化を越え出てしまう特異性や強度をもつものだが、それを成立させる基底として、それらはやはり文化を必要とする、のだろう。