●超有名な画家についての原稿の、最初の十枚くらいを書いた。ただ、ここまでは書く前に構想した、想定の範囲内で、とりあえず書けるところまでは書いておこうという感じで、ここから後、行き着くべきところまで行く着くには、多分あと二つくらいは越えなくてはならない山がある。締め切りまであと一週間足らずなのだが、そこまで行けるのかどうか。
●スポーツ選手はしばしばあからさまに権威主義的であり功利主義的である。オリンピックで金メダルとか、年棒何億とか、あるいはもっと単純にモテたいだとか。日の丸背負って戦うみたいなナショナリズムにしても、エースの威信にかけて、みたいな、単純な、権威-共同性に寄り添ったプライドのようなものの延長だろう。しかしそのようなモチベーションによってはじめて、通常では考えられないくらいの高いテンションでの、ある身体的な状態の維持やパフォーマンスが可能になるのだから、そこだけを切り取って批判してもあまり意味がない。(だから問題は、それに安直に同調しようとするファンの方にあり、あるいはそれを利用しようとする力の方にある。)
でも、芸術家にとっては、権威や功利は結局のところモチベーションには成り得ない(金メダルを夢見て水泳をはじめることはあり得ても、ヴェネチア・ビエンナーレを夢見て美術家になることはあり得ない。それがオリンピックよりも権威として下だからではなく、それは成功の結果-表現としてあるもので、金メダルのような目標-目的とは成り得ない、ということだ)。芸術にも権威や功利は当然あって、アートマーケットで認められ、高値がつけば、権威としても立派なアーティストということになって尊敬され、お金も沢山入って来るかもしれない。でもそれは、スポーツ選手がオリンピックで金メダルをとることとは意味が違う。金メダルという物は、結局のところ権威と功利と政治に集約されるとしても、金メダルをとるに至ったプレーをしている時の選手の身体的な状態そのもの、その充実そのものは、権威や功利や政治よって解消され尽くしてはしまわないだろう。しかしアートマーケットでの成功は、投機によって株価が上下するのと同じで、市場価格は内在的な価値(質や強度)を保証するものではなく、二つははじめから乖離している。別にアートマーケット(あるいは市場)を批判しているわけではなく、それはたんに事実としてそうであり、ただスポーツとは違うと言っているだけなのだが(スポーツは最低限、身体によって「現実-実質」との結びつきが確保されていて、象徴的秩序-記号の操作だけでは動かせない部分がある、ということ。だからこそそこには、呪術的といってもいいくらい強い、象徴的秩序の介入があるのかもしれないのだが)。
芸術家にとってのモチベーションはだから、その人に内在するものや、あるいは現実的にその人に作用している外的な諸力(その二つは結局同じものなのかもしれないのだが)にしかないと、まず一義的には言える。素朴な言い方をすれば、目的も理由も分からないけど何故か「つき動かされるものがある」ということだ。作品を作る発火点はそこにしかない(スポーツ選手でも、本当はここまでは同じなのだと思う)。ただ、それはやはり一時的なもので持続しないかもしれないので、その探求の持続を支えるものが、過去につくられた偉大な作品のもつ質なのだと思う。偉大な作品に触れた時に(孤独に)受け取った質だけが、結局のところ、芸術家に、高いテンションを維持しろ、そこに少しでも近づけ、と常に語りかけつづけ、命令しつづける。(自分にだけしか聞こえていない空耳であるのかもしれない)その声を聞き続けられる者、あるいは、その声に忠実でいつづけられる者だけが、内実のある作品をつくりつづけることができる。芸術家にとって原理や倫理は、「質」に忠実であるということだけにしかない。
質を「美」と言い換えてしまうと、意味がまったく違ってしまう。美は共同性の方にあるのだが、質は、他者と共有されることが事前には保証されていない、あるいは、自分でさえも意識化出来ていないかもしれない(意識は既に共同化-社会化されているので)のだが、否定しようもなくある(あるいは否定によってはじめてみえてくるのかもしれない)ある独自の感触のことだ(だからそれは、美術史-体系-権威によって担保されるようなものとは違って、あくまで個々の「作品」から個別に、直接やってくるものなのだ)。ほとんど何によっても担保されることのないこの感触を、どのように感知し、判断するのかというところにこそ、最もシビアな「技術」の問題がある。
(だが、作品の「質」はやはり、共同性-社会性とは別の筋道で、他者に伝わることが目指されてはいる。)
●なんかしらないけど、いかにぼくが『アキレスと亀』を嫌いか、という話になってしまっている気がする。