●今朝は寒かった。
●散歩をしていて、少年野球をやっているところに行き当たり、しばらく見ていた。グランドの外に、ユニホームは着ていないけど、チームと同じ帽子をかぶった、まだ小学校に上がってなくてチームに入れない、おそらくチームのメンバーの弟だと思われる男の子がいて、その子は、兄さんたちの試合をみて何か「つき動かされるもの」があったらしく、たった一人で、ものに憑かれたような、いてもたってもいられない感じで、辺りをやたらめったらと走り回っていた。その姿を見て、ぼくも動かされるものがあった。
ピカソはすごく絵がうまい。でもそれは、しばしば勘違いされるようには、美術教師であった父に子供の頃から徹底してアカデミックな美術教育を受けていたこととは関係ない。陸上競技をやっていたから足が速いのではなくて、足が速いから陸上をやるのであり、バレーをやっていたから背が伸びたのではなく、背が高いからバレーをやるのだ。ピカソの父がピカソに英才教育をしたのは、ピカソが絵が上手いことを見て取ったからであり、英才教育をしたから絵が上手くなったわけではないだろう(もっとも、それによって鍛えら、伸ばされた部分は多々あっただろうし、抑圧という意味で、また別のものが刻み付けられてもいるだろうが)。絵がうまいということは、おそらく、足が速いとか地肩が強いとかいうのと同じくらいに普遍的なもので(おそらくそれは、空間把握力と色感、およびその変換能力だろう)、アフリカに生まれるのとヨーロッパに生まれるのとの違いや、十八世紀に生まれるのと二十一世紀に生まれるのとの違いで、その「絵がうまい奴」が身につける様式や技術の体系はことなるだろうが(あるいは「うまさ」に対する社会的-象徴的な位置付けはことなるだろうが)、その「うまさ」を支えている実質には基本的な違いはないはずだ。絵を観るときに本当に重要なのは---つまり、人の感覚を動かし、刺激し、解放するのは---この「うまさ」の実質であって、表面的な形式や技術の体系(つまり「歴史」)ではない。(歴史-文化は、違った意味で時間の厚みを表現するものではあるから、これはこれで当然、非常に重要なのだが、それとは別の「質」があることは、忘れられてはならない。)
これは美術手帖の座談会の時にも言ったことだが、太古の人も現代の人も、同様に、歌うし、踊るし、描く。ぼくが興味があるのは、この時に人を動かしているものは何なのか、という点にのみある。