2023/04/22

メディウムスペシフィックなものと、メディウム横断的なもの。例えば、紙に印刷されることを前提に書かれた(レイアウトされた)詩は、電子書籍になると、その根本の構造が壊れてしまう。しかし、すべての詩が、あるいは、詩によって表現されるすべての要素が壊れるということではないだろう。ある詩は致命的に壊れるが、別の詩はほとんど無傷でメディウムを移動することができるかもしれない。あるいは、メディウムの移動によって多くの部分が破壊されたとしても、それでも残る何かがあるかもしれない。

(メディウムスペシフィックとは、作品において、その媒体と内容との間に緊密な相互参照的関係が必要だとする価値観のこと。)

近代絵画は、メディウム固有性が高く、例えば下のリンク先のようなことをすると、その絵がその絵であることの意味の多くが破壊されるだろう。それによって新たな経験が生まれるとしても、それは元の絵とはあまり関係はなく、絵は「名画」としてその権威性を利用されているだけになる。

イマーシブミュージアム | Immersive Museum

しかし、シュルレアリスム(や、ダダイズム)は、元々メディウム横断的な運動としてあった。詩、小説、美術(絵画、オブジェ、写真、コラージュ)、映画、演劇など、メディウムを移動しても残り得る何かが問題とされており、あるいは、積極的にメディウムを移動する力そのものが称揚される。また、複数のメディウムを統合するメディウムとしての映画や演劇と、その部分となりえる詩や美術が等価のものとしてあるという、ある意味でフラクタル的ともいえる特徴を持つ。上のリンクのような試みも、ダリやマン・レイやエルンストなどの作品を元ネタにすれば、そこに正当性が生まれるかもしれない。

メディウムスペシフィックなものとしての近代絵画と、メディウム横断的なものとしてのシュルレアリスムは、どちらも近代芸術であり、近代的なものの裏表の関係にあると言える。ここで、メディウムスペシフィックなものとメディウム横断的なもののあいだの「横断」ということを考えられないだろうか、と思う。ピカソやブラック(近代絵画側に軸足がある)、デ・キリコやミロ(シュルレアリスム側に軸がある)、あるいはジャコメッティ(軸はどっちだ?)などは、二つの相入れないように見えるものの交点に位置していると言える。

(あるいは、シュポール/シュルファスなどはまさに、メディウムスペシフィックなものとメディウム横断的なものの「横断」と言えるかもしれない。)

●通常、フォーマリズムは、メディウムスペシフィックなものとしての近代絵画とその延長上のものにしか適用されない、あるいはそちら側しか評価しない。しかし(余裕がなくて続きを読めていないのだが)ハーマンによって魔改造されたフォーマリズムはそうではない。