●「表象08」に載っている、クラウスの「メディウムの再発明」を読んだ。
クラウスの記述にはブレがあるようにみえる。一方でクラウスは、ある(新しかった)メディアは、《ジュークボックスや市街電車》と同じように骨董品となるような《崩壊する瞬間》にこそ、そのメディアに《突如として回収可能なものとなる、ある想像力に富んだ能力》が発現するのだとして、コールマンの作品を、そのようなものとして《支持体からそれ固有の約束事を掘り出そうとする》努力を有するものだと評価する。これは、グリーンバーグ的なメディウムスペシフィックとは異なるとしても、あるメディウムから、そこに既に潜在する「それ固有」の力能を引き出そうとするという意味では、メディウムスペシフィック的なものだ。実際、コールマンの作品を「二重のフェイス・アウト」という側面から分析し、そこから《非実体化された平面性との対峙》という性質を引き出す手つきは、その一部を挿げ替えるだけで、そのままマネの絵画における「平面性」の分析だとしてもそれほどおかしくない感じがする。
しかしもう一方で、写真というメディウムを扱うコールマンが、スライドという古くなった産業的な装置や、フォトノベル(コミック)という大衆的な文化から形式を借りてくることによって、《自律性や固有性》ときわめて折り合いの悪い(とりとめのない形式である)写真メディアに「再帰性」を与えているのだという指摘においては、メディアの固有性とは別のものから由来する、借りてこられた慣習や技巧を利用することで、(メディウムとしての、ではなく)作品そのものとしての(その作品に固有の形での)再帰性を得ているという書き方になっていると読める。さらに言えば、この「スライド」という形式によって、プルーストベンヤミンが愛した「幻灯機ショー」にまで《ある種の遺伝子標識》によって連なっていると書かれている。これは、写真というメディアの固有性とはまったく逆で、多数の文脈を交叉させることで生まれる、ネットワーク的で構成的な再帰性であり、メディウムスペシフィックではなくなる。
●この矛盾する二つの方向性を架橋するのが、おそらく次のよう文だろう。
《(…)もっとも堕落した大衆「文学」であるこの〈フォトノベルという〉形式こそ、コールマンがスライド・テープという物理的な支持体を変容させるときに利用しようとするものなのだ。つまりコールマンは、スライド・テープという物理的支持体を、最終的にメディウムと呼ばれるものの条件へ、すなわち十分な分節化、形式的な再帰化を施されたメディウムの条件へと変容させているのである。
それというのも、コールマンはフォトノベルの文法にこそ、芸術における〈慣習的な約束事〉へと発展する余地のある〈何か〉を見いだしているからだ。このような約束事は、作品の物質的な支持体から本質的に生じるとともに、この物質性に表現性を備給する。》
つまり、写真という「複製技術」、それを展示するためのスライド・テープという「装置」、そしてそれを作品として形にするためのフォトノベルの「形式」という三つのものは、それぞれ出自や由来が異なり、それらを結びつける先験的な根拠や必然性は何もない(互いが、互いに対して「借り物」である)のだが、しかし、それらが互いに結びついた時、そこに化学変化が起こったように、互いの潜在性が引きだされ、それが表現性へと発展される、ということが起り得る。だから、この結びつきは、事前に保障されたものではないが、恣意的なもの(たんなる借り物)でもなく、「事後的にその正統性が確認される関係性(事後的に生じた必然性)」がそこに生じているもので、そういう結びつきによって生まれる再帰性(約束事・慣習)が、「再発明」された「メディウム(ポストメディウムメディウム)」と呼ばれる、ということでいいのだろうか。
(そのような、事後的に生じる必然性を、一般的なものに対する「固有なもの(スペシフィック)」とする、という読み方でいいのだろうか。)
(とはいえ、「約束事」が、《作品の物質的な支持体から本質的に生じる》という言い方は、あまりにメディウムスペシフィックに寄り過ぎていて、適当ではないように思われる。せめて、「約束事」が恣意的ではないかどうか――結びつきがメディウムたり得るかどうか――は、「作品の物質的な支持体の承認(これは表現の効果によって測られる)」によって試される、というくらいの言い方が適当なのではないだろうか。本質というよりむしろ相性の問題、というか。)
●クラウスのテキストとはまた別の話だけど、シンセサイザーにピアノと同じ配列の鍵盤がついていることに、技術的な必然性はまったくない。しかしそこには、音楽を演奏する身体とのインターフェイスという、文化的な意味がある。そして、シンセサイザーとピアノの鍵盤という結びつきをもつ製品が「メディウム(あるいは約束事)」たり得るのかどうかは、それが実際にどの程度人に受け入れられ、活用されるのかにかかっていて、事前に「正しい答え」があるわけではない。メディウムの再発明というのは、こういうことに似ている気もする。
●また関係ない話だけど、「正統性が事後的に確認される」というのは重要なことだと思う。
例えば、何が「絵画」で何がそうでないかということを、事前に明確に定義することは誰にも出来ない。しかし、多くの人によってそれは(ズレや食い違いを孕みつつ)なんとなく共有されている。なんとなく共有されていることで、絵画は絵画としての一貫性と恒常性をもち、しかし同時に、それが曖昧であることにより、今まで誰も予想し得なかったものだけど、絵画としか言えない新しい何かの登場を受け入れることも可能になる。そして、そういうものが現れた時には、絵画は絵画としての継続性を保ちつつも、その内容は(過去に遡って)書き換えられる。