●昨日の日記の最後に「絵画」について書いたけど、クラウスの言うポストメディウム的な状況というのは、「絵画」とか「彫刻」のような安定した伝統的メディウム(約束事)を前提とすることができなくなっていて(それを、写真という技術のインパクトによってもたらされた「芸術」の「一般化」だとする、そして芸術に、そのような「一般的なもの」ではない「固有なもの」を取り戻そうとするのであれば)、それぞれの作家が、それぞれに(様々な要素を組み合わせ、組み替えることで)新たな再帰性としてのメディウム(約束事)――となり得る可能性――を、物質的支持体のなかから(再)発見しなければならないという、そういう状況である、ということだと思う。
対して、(まだ読みはじめたばかりでざっくりとした印象に過ぎないのだけど)マノヴィッチの『ニューメディアの言語』においては、あらゆるメディアが(ニューメディアである)コンピュータによって吸収され一元的に統合されるという世界像が描かれるという方向性のようだ。様々なメディアのコンテンツはすべて、数値化され、デジタル的に記述し直されることで一元化され、それによって相互的な、翻訳、変換、混合、変形、調整などが可能に(たやすく)なる。コンピュータというニューメディアが、あらゆるメディアの地となり、支持体となり、メディア間の通貨となり、多様なメディア間の交易や、多様な要素への拡散・収束をより活発にするという感じ。
●クラウス的なポストメディウムと、マノヴィッチ的なニューメディア。この違いは、「アニメ・マシーン」が記述する、それぞれバラバラな多平面間の隔たりによって(相対的な)運動を生起させるアニメティズムと、吉本隆明が記述する、「三次元座標そのものの視覚」という「世界視線」をもつ3DCGとの違いを想起させるものがある(実際、「ハイ・イメージ論」には、「ニューメディアの言語」を先取りしたような議論がいくつもみられる)。
●ここでおもしろいのは、クラウスが、メディウムの再発明に有効なのは、前を向くことではなくむしろ後ろを「振り返る」仕草だと書いているところだろう。あるメディアは、それが《蓄音機(追記、蓄音機ではなく「ジュークボックス」でした)や市街電車》のような「骨董品」になった時に、そのメディアが幼年期にもっていた多様な可能性を再びとりもどすチャンスがくるのだ、とクラウスは書いている。
ニューメディアであるコンピュータによって、古いメディアの意味が(遡行的に)書き換えられるとするマノヴィッチに対して、クラウスは、古いメディアへと振り返ることが、あらたなメディウム(未来の約束事)の創造を可能にするという。前を向くことが後ろに作用する、と、後ろを向くことが前へと作用する、という違い。
(例えば、「鍵盤つきのシンセサイザー」というものを考える時、それを、「ピアノの鍵盤という古い形式」と「シンセサイザーという新しい技術」の組み合わせによって、あらたなメディウム――約束事――の創造たりえた例だと考えることも出来る。しかしもう一方ではそれを、デジタル的な記述が音楽全体を包摂してしまったこと――デジタル的座標が音世界全体を覆い尽くし、あらゆる音がその座標上に位置づけられるようになったこと――の一つのあらわれとしてあるという風にみることもできる。つまり、メディウム=約束事が事後的に構成あるいは創造されたと言えるのか、あるいは、すべてを覆うエーテルのようなメディウム=空間が予めあって、そのなかで各要素の合成がなされるのか、という違い。)