●お知らせ。明日発売の「すばる」10月号に、青木淳悟『男一代之改革』の書評(「結節点と通路・幽霊的志向性」)が掲載されています。
表題作「男一代之改革」は、寛政の改革松平定信を巡る話ではあるのですが、「松平定信と読む(定信が読んだ)源氏物語」みたいな感じで、下手をすると半分くらいは「源氏物語」の要約と読解だったりするという小説で、これもとても面白いのですが、特に(前にもほぼ同じことを書きましたが)「鎌倉へのカーブ」は、奇跡的に成立した21世紀の私小説で、すばらしいと思います。
磯崎憲一郎さんが、「鎌倉へのカーブ」はたしかにすごくいいけど、そう感じるのはわれわれが青木夫婦のことを知っているからということもあるのではないか、と言っていましたが、磯崎さんはともかく、ぼくは青木夫婦のことをほとんど知らないですが、それでもとても面白かったです。
●下リンク先の記事を読んだ。「プレ・メディウム的条件──拡張映画とニューメディア論」(古畑百合子)
http://repre.org/repre/vol21/post-museum-art/note01/
なるほど。「ポストメディウム的状況」と言う時の「メディウム」の「技術的条件」には、一方で、テクノロジー的、ハードウェア的な条件という意味があり、しかし、もう一方に、言説的、文法的、慣習的、技法的な、つまり再帰的な条件という意味もある、と。そして、ロザリンド・クラウスは、主に後者に重きを置いて問題をたてているが、メディア論的な文脈ではこの点が見落とされがちである、と。これはとても分かり易い整理で、勉強になった。
《クラウスが再定義する「メディウム」の根底にあるのは、複合性や自己差異化といった特性ではなく、ある技術的支持体が可能にする表現のルールやシンタックスによって生成される再帰的構造というある意味ではまったくモダニスト的な考え方だ。そういう意味では、クラウスとグリーンバーグの違いは、物質的支持体を自己言及の対象とするか、それともルールとしての再帰的構造を自己言及の対象とするか、という違いでしかない。ただし、クラウスは再帰的構造としてのメディウムを言語体系や論理的パラダイムになぞらえる。そこで展開されるのは、「技術的支持体」に固有の条件によって規定された枠組み内で、表現のための一連のルールやシンタックス、あるいは文法をアーティストが再帰的に反復、参照することで、固有性を持った構造あるいはパラダイムとしてのメディウムが確立されるという考えだ。》
《(…)幾人かのアーティストが古い時代遅れのテクノロジーや商業的な表現形式をアートの領域に技術的支持体として取り込むことで、新しい一連のルール、あるいはパラダイムとしてのメディウムを「発明」することに成功している、と結論づけているのだ。つまり、ポストメディウム的状況は、「加工されていない物質的支持体」という狭義のメディウム概念の定義に対抗するための「技術的支持体」とそこから派生する表現のパラダイムとしての再帰的構造という考えから切り離せない。注目すべきは、ここで問題になる「技術」が単にハードウェアとしてのテクノロジーではなく、慣習や技法を含む広義の「技術」であるという点だ。言い換えれば、複製としての写真から複製可能なデジタル・データという技術決定論的な視点からポストメディウム的状況を分析するハンセンはハードウェアとしての技術に焦点を当てており、再帰的構造を可能にするルールや文法としての技術というクラウスの考えを見過ごしているのだ。》
●で、『ニューメディアの言語』(レフ・マノヴィッチ)を読み始めた。