2024/02/17

⚫︎RYOZAN PARK巣鴨で、保坂和志「小説的思考塾vol.15」。以下は、話された内容のレポートではなく話を聞きながら考えたこと。

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⚫︎目的から逆算されたプロセスがあるのではなく、一つ一つの試行錯誤が結果としてある形に至る。そして、一つ一つの試行錯誤は、全く何の形(結果)につながらないこともある。芸術作品というのは、そのようにして出来ている。そう考えることは、一つの結果(たとえば人類史における「農耕」の発生)を、当然そこに至るであろう必然的なものとは考えないということにもつながる。人類は、農耕を行わなかった、あるいは、行うとしても、ごく小規模にしか行わなかったという可能性もある。ならば、人類が「国家」を作らなかったという可能性もあることにもなる。

国家がなぜ必要となってしまうのかと言えば、外に別の国家があり、それと同等の強さを持って抵抗できなければ、別の国家から攻撃され、吸収され、支配されて、奴隷にされてしまうから、それに抗うために必要とされてしまうのだろう。だから、国家が一つもなければ国家は必要ないが、一つでもあれば国家だらけになってしまう。

⚫︎目的から逆算されたプロセスがあるのではなく、一つ一つの試行錯誤が結果としてある形に至る。そして、一つ一つの試行錯誤は、全く何の形(結果)につながらないこともある。芸術作品というのは、そのようにして出来ている。この点にかんして、絵画はとても大きな困難を持つ。キャンバスの大きさはあらかじめ決まっていて、キャンバスの外にまで絵の具を拡張することはできないからだ。だからどうしても、あらかじめ目的のようにしてある「外枠」が強く支配的に作用してしまう。この点は、モダニズムの絵画では常に強く意識されている。グリーンバーグは、「「アメリカ型」絵画」で、アーシル・ゴーキーについて次のように書いている。

セザンヌキュビストたちがデザインやドローイングについて全てを統御する座標として確立した枠から(セザンヌとキュビストたちはその時、古大家たちが忠実に守ったが決してはっきりとは口にしなかったルールを公然としたのだった)―キャンバスが持つその囲い込む矩形から―「逃れる」必要を感じ始めた。あらゆる線、そして一筆さえもが絵画を粋づける垂直線と水平線に対して明白な関係を持つことは。時とともに束縛的な習慣となっていったが、解決法が大きな表面にあるということがわかったのは一九四〇年代半ばおよび終わりになってのことであり、そしてそれはニューヨークにおいてであった。その大きな表面というのは、芸術家が制作する時に、その視野の外ないしはただ周縁にのみ表面を囲い込むエッジが位置することになるほど大きなものである。こうして芸術家は、前もって与えられたものとしての粋に従う代わりに、結果としてそれに到達することができたのだった。》

確かに「大きな表面(画面)」は、あらかじめあるものとしての「外枠」の力を弱めるものではある。しかし、それは根本的な解決ではない。「枠」を、制作中の画家の視線の外に追いやったとしても、その外に物理的に確定された「枠」があり続けることに変わりはない。ここでのグリーンバーグは、問題の指摘は鋭いが、その解決にかんする認識はちょっと弱い。物理的に確定されてある「枠」を、そこに到達すべきあらかじめある目的として扱わず、相対化するためのやり方(その試行錯誤)は、作家ごと、作品ごとに様々にあり得て、決定的な解があるというわけではない。

そのための一つのやり方として、一つの平面を「一つ」のものとせず、そこに互いに矛盾する複数の層を降り重ねること(虚の透明性)があり、あるいはまた別に、色彩のフィールドの広がりがフレームを超えて拡張するかのような感覚を作り出すことがあるだろう。マティスでいえば、前者が「赤い部屋(赤のハーモニー)」や「茄子のある静物」で、後者が「ダンス」や「音楽」だ。

(「ダンス」や「音楽」の凄さは、あたかもフレームなど存在しないかのようにあるところなのだが、なぜそう感じるかは未だよくわからない。画面の大きさはもちろん重要だが、大きいといってもとてつもなく大きいわけではない。それは、無限定にどこまでも拡張するかのような感覚ではなく、あたかもフレームが存在しないかのような拡張感がある、という感覚のことで、この違いは微妙だが決定的でもある。たとえば、リヒターやキーファーのような大仰でこけおどし的な大きさとは全く質が異なる。)

(ただこれも、「枠」の重力から逃れることそのものが自己目的化してしまうと、それがまさに「目的」になってしまうから違って、「枠」の力から逃れつつ、そこで何をするのか、どのように動けるのかが重要なのだが。)

⚫︎グリーンバーグは、絵画の「内容」はその「質」であり、宗教的なこと、画家の感情、社会的なことなどは「主題」であって「内容」ではないとする。ここで「質」とは「美的経験」のことであり、それは主観的な領域に現れるもので、ゆえに「曰く言い難い」。ただ、主観的で曰く言い難いことをできる限り明確にし、他者とある程度共有可能にするために(共有された質が「趣味」と呼ばれる)、その「質」を生んでいる原因であるはずの作品の「形式」や「構造」について分析的に検討していこうとする。フォーマリズムとはそういうものだろう。フォーマリズムが形式を問題にするのは、掴み難い「質(美的経験)」を問題にするためだ。

ただ、もう一つ、芸術において「質(経験)」とは、再帰的で自己言及的なものでもあり、それは「質(経験)」に対する反省を含んでおり、反省は、「質(経験)にかんする質(経験)」「質の質」というべき、再起的な質(経験)を生み出す。グリーンバーグはこれをメディウム自己批判と捉えるが、おそらくそうではなく、それは「質(経験)の自己批判」なのだ。「質」であると同時に「質の質」でもあるということが、芸術に固有の経験のあり方(経験の感触)なのだと思う。質の質が、質に対する反省であり再検討であることによって、芸術は人の経験のありよう(経験を生むための配置)を動かす力を持つ。「質」から「質の質」へと自己差異化していく、とか言うともっともらし過ぎるか。そのことによって、芸術は、それを制作する人も、それを真剣に受け取ろうとする人も、変化させていく。変化させずにはおかない。

⚫︎配布されたプリントにある、プルースト『見出された時』からの引用。《また人生が、あるときは実に美しいものに見えても、結局つまらないものと判断されたのだったとしたら、そのつまらなさというのは、人生それ自身とは全く別のものによって、人生を何一つ含んでいない映像によって、人生を判断し、人生を貶めているからであることを理解するのであった。》

芸術とはまさにここで言われる「人生を何一つ含んでいない映像」に対する抵抗であるだろう。芸術はまた、自分をくだらない、取るに足らない者であると思い込ませようとするあらゆる力への抵抗である。「人生を何一つ含んでいない映像」は、絵画におけるフレームのように、外側から「生」を鋳造しようとする。

たとえば、「正しいこと」をしようと努めることと、「正しくない」ことをしないようにすることとは、違う。後者は「正しくない」という外枠によって規定された判断になる。そこには、社会的にあらかじめ妥当とされている暫定的な正解を想定できる。だけど、「正しいこと」には、あらかじめ定められた正解がない。だから、「正しいこと」をしようと努めるなら、「間違っているかもしれないこと」をしなければいけなくなることもある。その時、「正しくないこと」をしないようにすることと矛盾し両立しなくなる。

これは、たんに「言い方の違い」なのではない。

たとえば、ある文脈の中で、ある出来事が、あるいは一連の出来事の流れが起きる、という時、それは、あるフレームが既にあって、フレームの中に絵の具が配置される、ということと同義だ。出来事は予めフレームとの関係に捕捉されている。そうではなく、ある出来事の配置が、あるいは一連の出来事の流れが「起こる」ことによって文脈が立ち上がるという時、出来事と文脈は同時に、同価なものとしてある。出来事は文脈を前提とせずに、それ自身として起こり、文脈もまた、それ自身として生起する。

(しかし、「同時」とは何なのか。同時という語には警戒が必要だ。「同時」に重きを置き過ぎると、アメリカ型フォーマリズムのような「瞬時性」のドグマにハマってしまう。出来事の配置の中から、文脈が事後的に発見される、でも良いはずだ。とはいえ、文脈が発見されることで、出来事の配置の意味が生まれるのだから、やはり「同時」なのか。とはいえ、文脈が発見される前の未然の状態、そこに新しい何かがありそうだという予感があるが、それが発見されるかもしれないし、発見されないかもしれないという、どちらもありの宙吊り状態があり、その宙吊り状態の中で行為するこそが、人生の時間だというべきだろう。)

(だとしても、新たな文脈が発見され、あるいは生成されたとき、宙吊り状態の予感的な出来事の経験は、遡行的、反省的、再帰的に読み直され、経験し直される。未然の状態での予感と手探りによる経験=質と、文脈が生成された状態で経験され直す再帰的な質の二重化。これが、前述した、芸術における「質」から「質の質」への自己差異化・多重化の経験ということなのかもしれない。)

⚫︎配布されたプリントにある「創作合評」での山下澄人の発言。

《多様性というのは、「受け入れる」という上から目線で見てくる者を容認することなのか。対立だって多様性ですよね。受け入れられずに縁が切れたとしても、両方がある。テンション上げて戦争なんかしないでお互いが抹殺されないである。それぞれの個を立てるとき、和解はオマケみたいなもので。もちろん和解できればいいんですけど。》

受け入れたり受け入れられたり、分かり合ったりしなくても、ただバラバラに、無関係であること。相入れない者に対する無関心はけっこう重要で、むしろ関心の過剰(気になって仕方がないこと)こそが差別や軋轢を生むのではないか。