●お知らせ。9月16日付けの「東京新聞」夕刊に、谷中のSCAI THE BATHHOUSEの「アニッシュ・カプーア展」についての美術評が掲載されます。
美術作品というものが、物質を加工することで、それを観た人の空間や世界の認識、あるいはその人の存在までもを揺るがしてしまうような状態をつくりだすものだとすれば、カプーアの作品は、まさにそのようなものだと言えると思います。
カプーアの作品の強さは、ただそれを観れば誰でもが理解できるというところにあると思います。アートの文脈の理解や前提知識をまったく要求しない、あるいは、目利きである必要がない、という意味で、きわめてシンプルな「作品」と言えるでしょう。ただそれを見るだけで、確実にある感覚的な質を経験できるでしょう。
(ただし、眼が見えるという条件があります。眼が見えない人は、これらの作品にアクセスすることができないでしょう。)
それはある意味、トリックアートと同じような構造をもつということでもあります。しかしそれはいわば、トリックが尽きるところのないトリックアートであり、「カプーアの作品のトリック」とは、そのまま「この世界のトリック」であるようなトリックなのだと言えます。この世界(この宇宙の物理法則)のなかでヒトとして(眼と人の身体を用いて事物や空間を認識しながら)存在している限りこのトリックの外には出られない、というようなトリックと言えると思います。
カプーアの作品は、「純粋に視覚的にたちあがるもの」であり、触れることによって消えてしまうでしょう。「トリックが尽きるところがない」というのは、視覚によって空間や世界を認識している限りにおいてという条件がつきます。触覚的には(実際に触ってはいないので、おそらく、ですが)ある質をもつ表情はあっても、謎はないでしょう。
それは視覚を通じて経験されるものですが、しかし決して、ただ視覚的認識だけを揺るがすというわけではないということが重要です。視覚から入り込んで、世界や自己に関する認識の根本を、身体の裏側からひっくり返すほどの強い経験が得られる得るのだと思います。
(カプーアが、Vantablackを芸術的コンテクストで使う権利を独占しようとするのは、Vantablackを使えば誰でもカプーアもどきの作品を造れてしまう---カプーア的経験を容易につくりだせるようになる---ので、アーティストとしての市場価値---希少性---が脅かされるためだと思われます。今のところ、カプーアの作品のコンセプトを真似ることは出来ても、その質的な高さを真似ることは容易ではないでしょう。Vantablackは、そのような技術的な質の高さによる独占状態を一部壊してしまう可能性があります。Vantablackの「独占」は褒められることとは思いませんが、「カプーア的な経験の質」を苦労して「創造した」人であるカプーアからすれば、他人によるその容易な再生産を面白くないと考えるのも、理解できないわけではありません。そのような意味でカプーアの仕事は、ロマン主義的な天才芸術家の仕事ではなく、もっと技術者や、技術的な条件のなかで仕事をするデザイナーに近いと考えられます。そのような意味でも、新しいと言えるでしょう。)
●渋谷でvectionの会合。ギリギリ終電に間に合って帰宅。危なかった。