●17日から、ポレポレ東中野で『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』の再上映がはじまる。
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『甦る相米慎二』という本の最後に、現存するほとんど唯一のものであると思われる、相米自身によるまとまった自作の言及が収録されている。そこで相米は、『台風クラブ』について、鈴木清順の「映画に、いい映画悪い映画などない、幸福な映画と不幸な映画の二種類しかない」という言葉を引いて、語っている。『台風クラブ』という映画は、九人の監督が集まって(ディレクターズカンパニー)、自分たちが信じる映画というものを、企業もいれずに自分たちでお金を工面して、自分たちの力で配給もやるというつもりでつくったのだけど、それは当時の日本映画の社会では受け入れられるようなものではなくて、公開のめどがまったく立たなかった、と。《本当に、これは語るのもみっともないような紆余曲折があり……》。そのまま、人の目に触れない不幸な映画となったかもしれなかった。しかし、その年にたまたま東京国際映画祭があって、たまたまベルトルッチやデビッド・パットナムのような人が審査員で、彼らが面白がったことで賞を得て、公開することができた、と。映画祭によって映画がもう一度生き返ることができた、と。
新宿での公開において、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』という映画は明らかに「幸福な映画」の方のくじを引いたと思う。そして今後ますます、この映画が「幸福な映画」の道を邁進してゆくことを願います。
(映画自身の境遇として「幸福である」ことと、映画の内容として「幸福である」こととが、同時に実現するように。)
●『壁抜けの谷』(山下澄人)読んだ。すごかった。ポケットに穴があいていて、ポケットのなかの物をいろいろとポトポト落っことしながら歩いていって、しばらくすると落とした物に気づいて(というか、それを自分が落としたのか、他人の落し物なのか分からないままで)、それを拾ってまたポケットに入れるのだけど、結果としてまた落っことす、みたいな感じの小説。いろいろ忘れながらすすんでいき、時々忘れたことを思い出し、思い出したことを忘れてゆく。そもそも、誰が忘れて、誰が思い出したのか、よく分からない。
読み終わって、山下さんがトークをしている動画をYouTubeでいくつか観た。保坂和志さんが、「自分や磯崎憲一郎は、そこまで書いたものを受けて、その次を書く、でも山下は、そこまで書いたことによって生まれた気分で、その次を書く、だから支離滅裂になる、小島(信夫)さんもそうだ」と言っていて、おそらくそういう書き方を最も徹底してやったのがこの小説なのではないか。今までにはけっこうあった、小説という形式に対する様々な「遠慮」がかなりきれいに抜け落ちている感じ。
ただ、この小説ですごいのは、支離滅裂なのに読みやすいし、分かりやすいということだと思う。どう考えても理屈に合わないのだけど、それが「難しい」「分からない」という感じにつながらない。
この小説のキーになるイメージの一つとして、老人(男)と若い女が一緒に寝ていて、お互いの夢を覗き合っているというのがあると思う。ぼくはここからどうしても『マルホランド・ドライブ』を思い出してしまう。この映画は、人知れずベッドの上で死んでいる女が、死にながら見ている夢という感じがある。勿論、それですべての説明がつく(そのイメージを中心点として作品の様々な要素が収斂される)ということではないのだけど、でも、その女は死んでいて自他の区別が緩んでいるのだから、その夢に他人の記憶や現在が巻き取られていったとしても不思議ではない。
ただ、この小説では、夢を見ている人が二人いて、その二人がどちらも相手の夢を覗いているので、互いが互いを内包しているという相互入れ子状態になって、この二人が無限に互いの立場を入れ替えながら、他者の記憶や存在も巻き込んでいくという形になる。
(袋Aが袋Bに内包されている状態と、袋Bが袋Aに内包されている状態とが、絶えずトポロジカルに反転しつづけるのだけど、それはつまり、世界の内と外とが反転しつづける---外が内になり、内が外になる---ということだから、そこには他者---異なるパースペクティブ---が必然的に巻き込まれて、主体といえるものの位置がどこにあるのかが分からなくなってくる。)