●『アトリエ会議』(磯崎憲一郎保坂和志横尾忠則)を読んでいた。「文藝」で連載しているやつが、もう本一冊分になったのか、と、思ったけど、半分は「語り下ろし」となっていた。
読んでいて「すばらしき仲間」という昔あったテレビのトーク番組を思い出した。七十年代半ばから八十年代の終わりくらいまでやっていた、けっこう長くつづいていた番組で、番組として固定されたホストなどはいなくて、毎回、文化人と呼ばれるような人が3、4人くらい出てきて、なんとなく緩いテーマのようなものをめぐって、まあ、雑談のようなことをしていた。今では(といっても最近はテレビはアニメしか観ないからぼくが知っているのは3、4年くらい前のテレビのイメージだけど)トークというとバラエティでお笑い芸人が喋るような、掛け合いがあり、展開があり、ボケとツッコミがあって、オチのあるものばかりになってしまったけど、「すばらしき仲間」では、そのような芸としてり喋りは求められていなかった。
雑談というのは普通に話すということで、緩い縛りとしてのテーマはあっても、事前に取り決められた進行はなく、話題を上手く振り分けたり、展開させたり、適切なツッコミをいれたりする役割がいない状態で、複数の人が会話をするということだ。それが番組として成立していたのは、クイズ番組などでも必ず「先生」と呼ばれるような文化人枠があったりとかして、当時はまだ「文化人」というもののステイタスが(テレビの世界のなかで)認められていたからだいうことがあるだろう(それは今でもあるかもしれないが、「文化人枠」はバラエティという一つの流れのなかで「使える」一つのキャラの類型としてあるだけで、文化人がバラエティのルールの外にいるわけではない)。「文化人」に対する一定の敬意があり、そこに居るのはキャラではなく一つの優れた人格であり、語られる言葉自体に(その場における役割や、進行の面白さとは独立した)一定の価値があると認められていたからこそ、展開がきれぎれ、不十分な言及、結論が示されないうちに話題が移って尻切れトンボになる、といった「雑談」に「聞くに値するもの」としての価値が付与される。
そこで機能していたのは、尊敬や信仰(あるいはファン)のような強い敬意ではないとしても、なんとなく世間で「偉い人」と言われている人に対する、薄くて無根拠な敬意であり、ゆるい権威主義のようなものだろう(この「権威主義」とはつまり「文化的なものを尊重する」ことの一つ側面だろう)。勿論、それに比例する強さで、反作用としての反骨のような感情もあったはずだが。言ってみれば、長生きしている人の言葉や持ち物にはご利益があるからそれにあやかりたい、みたいな感覚で、「世間で偉いと言われる人の言う事だからひとまず聞いておこう」という程度のことかもしれない。
しかし現在では、そのような(かつての文化人、文人が得ていたような)「ゆるい権威主義による人格への敬意」が成り立ちにくくて、トークには、直接的に「面白さ」「内容の希少性」「教訓」などが求められる。話す人の人格ではなく、役割としてのキャラと話の効果(成果)が重要なのだ、と。「芸人」に必要とされるのは、人格への敬意など無しにでも自分の話に客を引き入れる技術であろう。あるいは、圧倒的に希少価値の高い「内容(情報)」があれば、語りの技術は問われないかもしれない。それとは別に、その人の言うことならばすべてありがたいという、強いファンや信者(強い権威主義、あるいは想像的他者への転移)なら成立するかもしれない。
でも、普通の「雑談」を聞き続けるためには、その話し手に対する強過ぎない程度の敬意や好意、関心が必要であろう。そして、相手に対する(「話の効果」への興味でもなく、「信仰」でもない)一定の敬意や好意とともに聞き取られる言葉によってしか得ることのできない重要なものがあるとぼくは考える。柔軟さや気楽さを失わない程度の真剣な聴取が可能にする、批判的な知性といったものからは決して得られないもの(「批判的知性」がダメだと言っているのではない)。この本での三人の会話が実現しようとする「語りの形」は、そのようなものではないかとぼくは思う。そしてそれは、やはりどうしても(ゆるいものではあっても)一種の権威主義の作動が必要であると思う。
(例えば、この本とまったく同じ内容を、三人の無名の若者が語ったとしても、それを出版社は本にしてくれないかもしれないし、読者は読まないかもしれない。だがそれはアンフェアと言われるべきことなのか? これらの言葉は、ある「実績(「名」や「人生」)」に裏打ちされることで意味をもつ。教祖や教師の語りでもなく、対等な友人との語りでもなく、先輩の語りを聞く、ような感じ。)
だから、ある種の人たちにとっては、この本は、既に社会的に成功した「偉いおっさんたち」による、権威の上にのっかった気楽な放談のように聞こえるかもしれない。しかし、そういう形でしか実現できない「語り」があり、「場」があり、そのような語りの場でなければ伝えられない「何か」がある(それこそが「文化」――「芸術」ではなくて――なのかもしれない)。そしてそれを現代において(権威や信仰の作動が過剰にならないようにしつつ)実現させるのはとても困難なことだと感じる。過剰になり過ぎない敬意を生み出すための語りの魅力と、背中で語る的な「権威」の作動のさせ方。その意味で、この本の(かつての「文化人の語り」的な)「古さ」はとても貴重なものであり、そしてこの「古さ」は、今後、さらに困難で貴重なものになってゆくのではないかと思われる。