●『ランシエール 新<音楽の哲学>』(市田良彦)の第一章を読んだらとても面白くて、もう一度繰り返して、傍線を引いたりメモをとったりしながら読み返した。(でも、今、第二章の半分くらいまで読んでいるのだけど、二章にはいると急にテンションが落ちて、つまらなくなる。それは、ぼくがロックについて通り一遍以上のことを何も知らないからかもしれない。しかし、具体的な対象についての記述になって、逆に具体性が後退し、何か空疎なスローガンばかりがつづくようになった気がする。それは、印象派について書いているところなどでも明らかだ。でも、もう少しつづけて読んでみようとは思う。)
●おそらくポストモダン的な思想には二つの方向がある。一つは、我々は常に/既に複数的な存在であるにも関わらず、ある「支配者の(支配的な)力」によって、「一なる」存在であるかのように強制されている(ブラトニズム)。だから、我々は、複数性を取り返さなければならない、という方向。そして、もう一つは、我々はあらかじめ(有機的な)「一なる」統一性を与えられていない存在であるからこそ、そこに「一なる」印しを事後的(人工的)に刻みこむことによって、かろうじて、ようやく仮の統一性を保つことが出来ている、というもの。前者はドゥルーズ(「モル」的なものから「分子」的なものへ)やデリダ(手紙は分割され得るし、誤配され得る)などのいわゆるポストモダン思想で、後者は精神分析(ラカン)だろう。これは、まったく別のことを言っているのではなく、同じような状況に対する、二つのことなる態度だと言えよう。前者からみれば、後者は「支配者の言説」にみえるだろうし、後者からみれば、前者は「既に統一性(既得権)を得ている者」だからこそ言える「お気楽な言説」にみえるだろう。
●『ランシエール 新<音楽の哲学>』の第一章によれば、ランシエールは前者の思考から出発する。ラカンに接近する師匠のアルチュセール(「大衆の反乱は決して革命的ではない」)を批判し、ランシエールはドゥルーズ的なものに近付くことになる。
《社会の「一」性(一つの社会が存在することの自明性)をメンバー主体の「一」性(私は私であることの自明性)により説明することは、議論をすりかえているのでなければ、社会のなかでその主体が占める位置あるいは機能の「一」性(靴屋は靴屋であって農民ではない)に社会成立の根拠を求めることと表裏一体であって、役割の一義的分配体系が一つの社会を定義するという「社会学」であるだろう。(略)役割の分配体系のなかで占める位置に固有の観念が分配体系をの存続を保証するというかぎりでは、プラトンとデュルケームとアルチュセールの間に大きな違いはない。イデアと規範とイデオロギーは、基本的に同じ振舞いをして、同じような仕方で社会なるものを想定する。》
このような批判は典型的にポストモダン的なものだろう。あるいは、代理=表象に対する徹底的な否定もまた、ドゥルーズに近い。(例えば、「サバルタン」は語ることが出来ないから、知識人は彼等に代わって「語る」(代理=表象)ことをしなければならないという「倫理」をかかげるスピヴァクへの批判。)
しかし、代理=表象への批判という場面において、ランシエールとドゥルーズとは微妙な差異をみせる。
《小説に登場する個人が情動と感覚に解体され、絵画に描かれる個人が筆遣いや色のバイブレーションに解消される。思うに、美的ないし物理-美学的なこのモデルを、ドゥルーズ=ガタリは政治のモデルに移植しようとしていたのです。それをもって、代理-表象問題にけりをつけようとした。大衆概念に凝固する大衆に、主体無きエネルギー、流れるエネルギーを対置しようというわけです。それが「マルチチュード」の意味するところでもある。しかし問題は、政治において人は常に舞台を作るということです。ドゥルーズ-ガタリは演劇モデルを避けようとしていました。彼らは解体した個体性の小説モデルを演劇モデルに対立させようとしたのだと言っていいでしょう。しかし私は政治はつねにいくばくかは劇場の構成だと思うのです。
(略)「我々は人民である」というスローガンにおいて、「我々」と「人民」は別のものを指していることになります。政治は二つのものの隔たりのなかに構成されるのです。分子的なものとモル的なものを対立させることによって、ドゥルーズ-ガタリは正反対のことをしているように思えます。彼らは政治的主体の一種類の現実性が欲しいのです。私にとって政治は演劇的で人為的な空間の構成なのです。》(ランシエール本人の発言の引用「ディソナンス」誌、インタビュー)
面白いのは、代理=表象という機能を否定しつつも、演劇モデルを採用するというところだろう。主体も代理=表象もなく、どのように舞台を構成するのか。それはどのように可能なのか。この本では次のような例が引かれる。労働者が舞台に立って自らについて語るとしても、それは常に知識人の言葉の口まねでしかなく、内容的には知識人の語りと変わりはない。しかし、ここで、同じ言葉を、ことなる二つの立場の者が語ることによってこそ、コンフリクトが構成され「上演される」というのだ。ここがとても面白い。
《(略)同じ語りであっても、考えることと体を動かすことの「語り」内的分節がまったく違っているのである。一方が同じことしか言っていないではないか、独自の新しいことは何も言っていないではないかとみなすときに、他方は、その同じことが私の語りである、と応酬する。同じように考えるのでも行為するのでもない二つの陣営の区別が、一つの同じ語りを通じて現実化する。二重の操作として遂行される語りが、それを承認しないモデルとの衝突を通して、考えることと行為することの編成・分節を不安定化させる。まさに同床異夢が露呈されるのであって、労働者は知識人と同じことを語りながら、知識人の語りを「再演」しながら、語りを「移動」させてゆく。別のことは何も語られていないのに、あるいは別のことは何も語られていないから、一つの同じことをめぐるコンフリクトが上演されうるのである。》
このあたりは、精神分析的な匂いが強くする。このように、コンフリクトが露呈され、上演される場においてのみ「政治」があらわれる。だから、フーコー的(68年的)なスローガン「すべては政治的である」に対して、「政治はまれである」となる。政治は、上演され、コンフリクトが(人工的に)「演出される」時にのみあらわれる、と。しかし、それに続けて市田氏は次のように書く。
《ゆえに、政治の「まれ」さを理解するためには、いたるところにその「まれ」さを発見する努力が必要になるだろう。政治はいたるところ、あらゆる瞬間に「まれ」なのだ。「同じ」明言に抗争の痕跡を読みとることにより、それは理解される。
これは現実の歴史過程にあっては確かに「まれ」にしか生起しない反乱が、いかに「日常的」な主体化を通じて準備されるかを考える問題である。「すべては政治的である」と「政治はまれである」の間に挟まって見えなくなりがちな、「すべては政治的でありうる」から目を離さないという課題である。》
ランシエールによれば「民主主義」は自然状態で既に実現している。しかし、それはすぐさま「支配的な力」によって抑圧される。(このあたりに68年的なものが濃厚に響いている。これは、精神分析的な認識のまったくの裏返しだろう。)そして、「感覚的なものの分割」を通して、自然的な民主主義を抑圧し、あるいは<自然的な民主主義と支配的な力とのコンフリクトを露呈させる「政治」>を抑圧するのが「文化」だということになる。
《ここでの歌はむしろ、日常生活のなかでただ歌われ、聴かれ、消費され、芸術として承認されたりされなかったりするありふれたあり方しかしていない。ここでは、音楽がそのようにあるという事態そのものに、<感覚的なものの分割>が日々遂行され、再分割の契機が生まれては潰されてゆく様子を見出そうとするだけだ。革命的な音楽、反乱である音楽など存在していない。音楽が存在していることそのものが、反革命的な<感覚的なものの分割>----歌う者は働かないし考えない-----の効果であるからである。ありふれたまれなもの、まれなものになっているありふれたもの、それが反乱であり、<アート>としての音楽の存在はそれに蓋をしているからそれに境を接している。》
ここで言われているのは、音楽は、既に「文化」によって蓋をされたものとしてしか存在せず、それは「政治」を覆い隠すのだが、しかしそれは、わざわざ「蓋をされなければならない」という事実によって、常に蓋をされる以前のもの(「コンフリクトの演出としての政治」を露呈させずにはおかない原初的民主主義)に接してはいる、ということだろう。つまり、歌は、「いたるところ」、「あらゆる瞬間」にある「まれなもの」と成り得るものだ、と。その「まれ」さこそが、読み取られなければならない、と。
●この本の面白いところは、濃厚にポストモダン的であり68年的でありつつも、68年的なものとその帰結(ネオリベ的なものとレヴィナス的な無限の応答責任は、表裏一体であり相補的であろう)に対するとても強烈な批判であるような、絶妙な(微妙な)ランシエールの像を描き出しているところにあると思われる。