『インシテミル』(米澤穂信)について、もうちょっと

●昨日の夜、帰宅すると、電話の回線が繋がらなくなっていた。こういうことは何年か前にも(たぶん、ちょうど同じような時期に)あったので、原因は予想がついた。今日になってから、NTTに携帯から電話して、修理に来てもらった。原因は思った通り、ジャックとコードとが接する金属部分が湿気で腐食してしまっいてたのだった。
ムルナウの『タブウ』をビデオで見ていて、『未来少年コナン』を連想した。
●『インシテミル』(米澤穂信)について、もうちょっと。(ネタバレあり。)この小説は考えてみれば、ミステリっぽいけど、ミステリではない。理論的な謎解きのゲームではなくて、生き残りのゲームで、それを、いかにもなミステリ的設定や小道具でまぶしているだけだろう。(探偵による推理の是非が、理論的な整合性ではなく多数決によって決められる。よって、その決議に参加する人にとっての利害こそが、あるいはその間のかけひきこそが、結果を左右する。)生き残りのゲームであることによって、設定としていくら閉じたものにしようと、決して閉じたものになることは出来ず、それは常に偶発性を含み、形式に回収されない「時間」という要素が加わり、政治的緊張が生じ、つまり「現実」が介入する。(ぼくが、読んでいて「謎」にほとんど興味がいかなかったのは、おそらくそれが理由だろう。)だからここでは、ミステリとしての厳密さははじめから決して成り立たないようになっている。この小説のシリアスさは、これが「生き残りゲーム」であることによって生まれる。
(「正しいこと」を言えば良いというものではない、「正しいこと」を導き出すことそのものよりも、それを「認めてもらう」ことの方がずっと困難である、というようなモチーフは、「小市民シリーズ」の、頼まれもしないのに「正しいこと」を言ってしまって、まわりから疎ましがられる、というモチーフと直結している。このようなモチーフは否応無く「社会性」を帯びる。しかし、『インシテミル』で終盤、主人公が一旦「ゲームから降りる(降ろされる)」という点の重要さは、繰り返し確認されるべきだと思われる。)