●論争というものがあまり信用できない。例えば、イチローが、自らのバッティング理論(テーゼ)と基本的に対立する理論(アンチテーゼ)をもつバッティングコーチとの対論を通じて、そのバッティング技術を高める(止揚する)、なんてことはあまり想像できない。イチローにその技術を更新させることを促すものは(あるいは、その獲得された「技術-理論」を検証するものは)、凄いピッチャーの投げる凄いボールであって、対立するバッティング理論との間で戦わされる論争ではないはずだ。あるいは、フロイトに、常にその理論の更新を促しつづけたものは、目の前にいる患者の存在であって、フロイトの理論に反対する者との間で起こる論争ではないだろう。(この、二種類の「他者」の違いは重要だと思う。)
●より良いものを生み出そうとする時、その「正しさ」は決して一つではない。ある正しさと、根本的に相容れない別の正しさがある。例えば、イチローと松井の仲が悪いとしても、それはそれで仕方がない。これは相対主義ということではない。どちらも、限定的に、しかし絶対的に、正しいのだ。(どんな正しさも、決して「全て」ではない。)つまりそれは、イチローと松井が論争(あるいは協力)したからといって、それを超克するような、より優れた新たなバッティング技術が簡単に生まれるわけではない、ということでもある。(イチローはイチローとして、松井は松井として、それぞれのバッティングをそれぞれで追求するしかない。)それはまた、たんに論争するだけでは「話した」ことにならないということでもある。
●ある人が何か意見を言い、もう一方の人がそれとは異なる意見を言って、双方で相手の問題点を指摘して、意見を戦わせつつ議論を深めてゆく、というようなスタイルでなければ「話したことにならない」みたいな思い込みは、一体どこから出て来るのだろうかと思う。そういうのって、ある意味すごく安直でさえあるんじゃないだろうか。安直というのは言い過ぎだとしても、それは人が話をすることのあり様にごく一部でしかない。人はもっと普通に話すのであり、あるいは、人と人とはそう簡単には話せない。(例えば、フロイトと患者との「対話」は、どのように成立していたのか。)コミュニケーションは言葉だけでなく、様々な要素、様々な次元が同時に絡み合って進行しており、それが作用する時間のスパンもまちまちのはずだ。(その場ですぐ反応できる言葉もあれば、何年も経ってから作用する言葉もある。)
●異なる立場、相容れない意見をもつ者による論争が下らないといっているのではない。だがそれは、何かを生み出すものではなく、妥協点を、落としどころを探るためのものとなるだろう。それは、同一の空間や限りある資源を共有するしかない我々が、そのなかで異なる立場の者とそれを分け合い、その分配比率を調整しなければならないという条件のもとでは避けて通れない、ということだ。だからそれは、より良いものを目指すのではなく、より多くの人にとってより少なく悪いものを目指すことになる。これは論争というより政治であり、落としどころは常に中庸なものとなるだろう。こちらはこの部分を妥協するから、お前はこれを譲れ、という具合に。それは常にその都度の具体的な折衝としてあらわれる。
●正しさというのはとても危険なもので、あることを正しいと思った瞬間、それにそぐわないことは皆「間違っている」と思いがちだ。間違っている、ならまだマシだが、それを共有しないことを「悪」だとさえ思うようになる。そして、自分はこんなに「正しい」考えをもち、「正しい」行いをしているのに、それを認めない周囲は、皆間違っていて、許せないと思ってしまう。だが、そんな「正しさ」は根本的に間違っているはずなのだが。