●ぼくは、前もって構想を立てたり設計図をつくったりは出来なくて、考えながら書き、書きながら考えることして出来ない。同じ事を少しの言い換えで何度も書き込んで、考えをその都度、何度も確認しつつ書き進めてゆくので、例えばこの日記の文章でも、原稿などでも、推敲して後から不必要だと思う部分を削ったとしても、文が冗長だったり、日本語として変だったり、繰り返しが多かったりという感じがどうしても残ってしまう。一度定義されたものはその後ずっとそのままで進んで行く、というような文章をどうしても「簡単過ぎる」と感じる。キーワードを、あらかじめ確定されているものであるかのように取り扱って、それを組み立てているだけのものを思考とは思えない。定義されたものの意味が、反復され、吟味されるうちにズレたりブレたり変化したりせざるを得なくなるということが「考える」ことだと思う。何かを確定させることにはあまり興味がない。
考えることは、問題を解くことではなく、問題を立てる(立て直す)ことだ、というのは、よく言われることではあるが、きわめて重要なことだと思う。流通しているキーワードを用いて、共有されている問題について考えるという時、もう既に、そのキーワードや問題が帰属している思考の構えや形にハマってしまっている。その次元でいくらこねくり回しても、あまり意味はない。本来、ある言葉の意味は、それが使われている文章の流れのなかでしか読み取ることが出来ない。そこを離れて定義することは出来ない。例えば、「象徴界ってどういう意味?」と言われたとしても、それを言い出したラカンからして既に、時期や場所によってその都度、使い方にブレがあって、きっちりと確定した定義が出来るわけではない。ラカンの難解さは、その理論の難解さである以上に、言ってることがその都度違う、ということにも起因する。それは、ラカンにとって重要なのが、世界の探求であって、理論の完成ではないからだろう(それはラカンにとって常に臨床が問題だったことと切り離せないだろう)。そこにあるのは、ラカンが考え、発見し、考え直し、再発見する、その思考の持続、その深度と跳躍であり、ラカンを読む時に重要なのはそれを掴むことであろう。理論の整合性は事後的に発見され、調整されるものでしかない。考えることが要請する正確さは、理論の次元での正確さというよりも、その思考の、その都度での、世界との対応関係における正確さなのだ。
非効率的で、非コミュニケーション的ではあるが、何かを考える時、その都度、問題の設定、問題の立ち上げから、繰り返しやり直すしかない。そこでの問題設定や用語は、容易には他人と共有されない。それは、要約が困難であり、汎用性が低いものとなろう。ぶっちゃけ、それは「使えない」ものだ。極端なことを言えば、昨日考えたことは、今日の思考には使えないかもしれないのだ。だから、他人と共有されないばかりか、自分とも共有されないかもしれない。いや、それはちょっと極端すぎる言い方だが。
例えば、イチローのバッティング技術や理論は、イチローという身体の上でしか作動しない。それは、イチローという身体の上で追求され、その身体と共に構築されていった。それを、まったく質の異なる運動能力をもった別の人にそのままコピーすることは不可能だ。競技のレベルが上がれば上がるほど、それぞれの選手が、それぞれの身体的特質や資質に沿って、自らの技術の習得と身体の構築をするしかなくなる。そして、厳密に言えば、昨日のイチローと今日のイチローでは、その身体の有り様は微妙に変化している。だからその技術の有り様も、毎日、その都度微妙に調整され、再構築されなければならなくなる。優れた選手であればあるほど、その調整のやり方も、人とは共有できないものになるだろう。
だが、まったく異なる資質の選手であっても、イチローの技術から何かを盗むことは可能だろう。ある技術体系が、まったく別の技術体系から、何かを受け取るとこが出来る。思考のコミュニケーションの可能性は、(キーワードや問題や理論の共有にではなく)ここにあるように思われる。
●ここ二、三日ずっと原稿の手直しをしている。PDFで送られてきたゲラをコンビニでプリントアウトして、喫茶店で紙の上で手直しをし、それを部屋のパソコンに打ち込みながらさらに直し、またそれをネットカフェでプリントして(コンビニではテキストファイルがプリントできない)また紙の上で直し、再度パソコンに打ち込みながら直す。そうこうしているうちに、年が明けてすぐに出る雑誌に載る原稿の刷り出しが送られてくる。喫茶店はすごく空いているが、ネットカフェは混んでいた。テレビはまったく見ない。年の暮れという感じがまったくない。正月に実家に帰る予定がたたない。
●ネットカフェは近所にもあるけど、隣の駅まで、川を通って遠回りして歩いて行く。片道一時間くらいの散歩となる。こうでもしないと、部屋と駅前の往復だけで日々が過ぎて行く。鳩が群れをつくって旋回し、そこに一羽の鴉が突っ込むように飛んでゆく。しかし鳩の群れは少しも乱れず、むしろ鴉の方がびびっている感じ。その下の川原には、犬をつれた深緑色のジャージの人がいる。川には空の青が映っている。鳩や鴉よりもっと上の真上からヘリコプターの音が降ってくる。そこからすこし下流の川の中程に、白鷺が一羽、まるで陶器の壺みたいに、まったく動くことなくすっと立っている。白い。その動かなさに油断して、ほんの一瞬視線を外していると、そのわずかな間に飛び立ったようで、首を長く前にのばし、まったく別の生き物のようになって、水面ぎりぎりを滑るように飛んでいる白いものがあった。