●「現代思想」の清水高志さんのジェイムズについてのテキストがすごく面白い。ぼくはこういう話が好きなのだなあと改めて思った。
清水高志「鍵束と宇宙」(「現代思想」2015年7月号)より。
《「具体的な一片の経験」が、ある「一群の経験」のうちに置かれる場合、その経験は意識の役割を演じる、とジェイムズは言う。ある経験から経験への推移の経験(②)が、別の経験の帰着点を予期させるとき、それは精神ないし意識として機能する。この場合その経験は他の経験となだらかに結びつきつつ、意識の流れを形成するだろう。ここであらわれる一群の経験は誰かの「意識」という文脈をもっている。いっぽうでまた、その出発点となった経験は、「客観的な内容」や「知られるモノ」でもあり、別の経験のグループに属している。》
《ある瞬間のペンの経験は、後続する経験において《過去の》ものとなり、回顧されるものとなる。このとき最初のペンの経験は意識内容として、後続する経験、たとえばそれを自分が持ち続けている、という経験に代わられるが、それは最初の経験の側からするとペンを持ち続けるであろうという《未来の》予期の充足でもある。
このときペンは使用(use)される対象となり、また意識がそのことを予期していたことになるが、しかしそれは最初の経験が後続する経験によって私有化(横取り)されることによって、回顧的に見出されることなのだとジェイムズは言う。「私有化(横取り)」とはつまり、ある経験からある経験への推移(②)が経験されることによって、最初の経験がそこに吸収されるということである。使用される対象としてのペンは、このとき予期を充足するものとして、他の経験によって、過去から拾い上げられる。使用とは、「それが他の経験のうちにあって操作される間中、受動的で不変に留まっている」ことであるというジェイムズの言葉は、こうした状況を指しているであろう。》
《もとより純粋経験には、主体と対象の区別すらない。しかしそれがひとたび後の経験によって回顧されるものになると、後続の経験は予期される対象となり、それを予期する主体も見出される。後に起こる経験を対象にしつつ、主体はその予期を充足し検証するか、あるいはその対象によって訂正される。時間的な前後と回顧という主題を持ち込んだことから、ジェイムズは「純粋経験の世界」での議論をより厳密にするように迫られる。――後続の経験それ自体、純粋経験であっていまだ対象ではない、ということが強調されるのである。ただしそれは、回顧される過去の経験によって対象化されようとするものとしてある。純粋経験はいわば前-対象とも呼ぶべきものなのだ。》
●たとえばラカンは、「現実的なものとはつねに同じ場所に再来するものである」と言い、「人は変われば変わるほど変わらない」と言い、精神分析の目的は最初のトラウマの位置(身体の出来事)に戻りそれと同一化することだという。つまり、生きている限り延々と最初のトラウマを運命的に反復(変奏)するのが人間だ、と。これは理論的にまったく面白くない。しかし、そうであるにもかかわらず、ラカンに一貫してそう言わせ続けた、臨床に場に繰り返し現れる否定し難い手ごたえのようなものが、おそらくあるのだろう。そういうものは、「理論」のレベルで解消させることはできない。ラカンの言っていることは本当に気に入らないわけだが、しかしそこには決して軽くみることのできない何かがあるのだと思われる。それを一体、どう考えればいいのかといつも悩む。