●白山の東洋大学に、シンポジウム『「実在論」の可能性をめぐって』を聞きに行った。清水高志「メイヤスーと思弁的実在論」、菅原潤「ポスト・カント主義と相関主義--グラントを介して」。後者は、グラントの『シェリング以降の自然哲学』という本が、シェリング研究としていかに画期的かということを軸にした話だったので、古典哲学の素養がなく「シェリングって、名前は聞いたことあるけど…」という程度のぼくには話の展開を十分に追うことができなかった。
(以下は清水さんの発表とレジュメ---というか、論文---をもとに、自分の頭を整理するためにまとめたもの。正確かどうかはわかりません。)
●清水さんの話は、メイヤスーの主要な関心が、「自分が現にあるありかた(即自)」以外の世界や自分の状態(他界、彼岸、死後など)について何をどのように知ることができるのかという宗教的な問題意識にある、とするところからはじまる。
まず、素朴実在論が、人間の精神との相関性抜きに事物について語ることができない点について無自覚である、として批判される。故に、カント以降の哲学が相関性に自覚的になることは必然的だ、と。精神の関与から離れて出来事を即自的に認識することはできないとし、しかし、それを無矛盾な存在として思考することはできるという「弱い相関主義者」としてカントが位置づけられる。対して「強い相関主義者」は、精神の関与の《大いなる外部》にある存在については、認識できないだけでなく、思考もできないと主張する。ポスト構造主義の思想はいろいろバリエーションがあっても結局この「強い相関主義者」ということになる。
「強い相関主義」では、精神との相関の外部にある存在についてアクセス不可能となり、その存在や思考は、主体にとって「他なるもの」となる。しかしその「他なるもの」の存在を否定するわけではないから、結局それを受動的に受け入れるしかなくなり、つまり、対象世界に対してきわめて依存的になるしかない。故に、メイヤスーはこの「不可知論」に対して「信仰主義」として抵抗する。信仰主義としての「強い相関主義」は、不可論的で懐疑的なポーズをとりながらも、客観世界への強い依存性、盲信性とともにある、と。
●ここで、エリー・デューリングによるロマン主義批判も、メイヤスーと同様の主張として触れられる。個々の即自的なものを否定するために、主客の相関関係の「プロセス」の方を重視することで、「主体」や「形而上学」を批判するというのが、二十世紀のアートの一つの常道としてあった。しかしその時、認識の外部にあるモノ(プロセス、余剰、残余、政治、他者)は、主体との関係に取り込まれ、結局、主体をどこまでも否定しつづけることを通じて別種の主体化を次々ともたらし、結果として主体をどこまでも拡張しつづけるだけになってしまう。
清水さんはこれを、(1)欠如のホーリズム---主体化をどこまでも否定しつづけることで結果として主体をどこまでも拡張してゆく---と、(2)切断・誤配---外部性を招き入れることで主体化を分裂、切断、複数化する---とに分けるが、しかしどちらも「強い相関主義」であり、ポストモダン的である点は変わらないとする。外部は、《即自の状態》としてハプニング的に与えられているが、《非即自の状態》として思考されるわけではない。つまり、別様であるあり方を具体的に知り得ないが故に、それは実質的には(複数であり、断片であったとしても)唯一のもの(絶対的なもの)として与えられていることになる。
これでは、主体化を断絶させたり、複数化させるとされる外部=モノの側に、「複数のものを綜合する」という(主体の側にはある)アドバンテージが成立しようがないことになる。故に、モノ(プロセス、余剰…)が絶対者のように現れたとしても、それは錯覚にすぎない。誤配的なモノの介在は、あらたな主体化のためのたんなる仕切り直しでしかない(おそらく、ここの部分が新しく、重要)。
モノ(プロセス、余剰、断片…)ではなく、さまざまな形で「別様」にあり得る《事実性》そのものが思考されなければならない。それが非即自的な事実性だ、と。つまり、事実性がさまざまなに「別様」な形であり得ること---「偶然性」---こそが、事実性について「必然的」に語られうることだ、と。
●とはいえ、偶然性ですら実は「私たちにとっての偶然」でしかないのではないか。
ここで「死後」の問題が現われ、《即自性》としての自己という問題が現れる。死後の存在について「二つの独断論」がありえる。(1)私たちの存在は神の永遠の観想のもとに存続する、(2)私たちの存在はすべて無に帰する。それに対し、(3)相関主義者は、どちらの主張も独断的にはなし得ないとするだろう。この三者の三つ巴の論争に対し、そもそも三者の主張はどれも「私たちにとって知られるもの」以外の状態が「ある」こと、それについて思考することが「可能だ」という前提を認めてしまっている、と「強い(不可知論的)相関主義者」は批判するだろう。
「不可知論的相関主義者」は主張する。「私」が存在しない状態で、即自的にその状態を思考することは不可能だが、「私がいない状態になること」を排除する原因も見いだせない、と。つまり、「私が現在のように考えもせず、存在もしない状態」について「考える」ことは、少なくとも可能だ。それは、「死」において「私」が「別様なものになる」という「事実性」について、私たちは考えられるということだ。
そこにラスボスの「思弁的哲学者」登場。「強い相関主義者」は、「まったく偶然に別様であり得る可能性をもつ事実性」を、コギトよりも根源的なものとして見いださざるを得なかった。そしてそれについて思考可能とした。だが、そのような《事実性》(「偶然」に別様であり得ること、それについて「思考」可能なこと)こそが、「あらゆる否定や懐疑に関わらず逆説的に成立し続ける《絶対的》なものだ」という「絶対性」に気づいていないと批判する。
つまり「私たちにとっての偶然(主体と相関的な偶然)」より根底的なところに絶対的な偶然が見いだされる。
(清水さんはここでの論の展開に、『中論』のテトラレンマとの類似を指摘する。)
●「私たちにとっての偶然」以前に絶対的な偶然があるとすれば、主体がすでに偶然の結果(事後的なもの)となる。《事実性》は、それを考える主体より先立っていて、即自的な主体は、《事実性》としてのさまざまな「ある状態」たちの結びつきや変化の結果として事後的に見いだされる。《事実性》は、主体に先立つものであり、同時に、まったく主体でないとは言い切れないものだ。この辺は、汎心論的。シンポジウムの会場では、西田的と指摘されていた。《しかもこの「状態」は、奇妙なことに主体の不在、死という「状態」まで含んでいるのである。》
メイヤスーの立場である「思弁的哲学者」は、彼が批判する「強い相関主義者」にきわめて近い位置にいる(その主張をほぼ認める)が、ただ「絶対的なものの提示」という点で異なっている。故に彼は、非不可知論的な強い相関主義者なのだ、と。
●ここで清水さんは、メイヤスーとウィリアム・ジェイムズ純粋経験論を結びつける。《ある純粋経験は、それが後発する別の純粋経験とうまく連接するとき、後発の純粋経験を「予期していた」主体となり、後発する純粋経験は「予期された」対象として扱われるが、それ自体経験である連接という事実が、それらの分離に先立っているとジェイムズは考えた。》
主体化に先立つ《事実性》としての「連接」。事後的に、主体となり対象となるもの(純粋経験)の間に起こる連接の以前には、どちらも「単独な状態」であり、それ自体としての「孤絶」がある。この「孤絶」により、相関主義を肥大化させるプロセス(欠如のホーリズムや、切断・誤配)から逃れる。
即自(純粋経験)aと即自(純粋経験)bとの間に連接が起こり、aが主体となり、bが対象となったとしても、bにとっての即自的な主体性は、aからすると断絶している。しかしabの連接によって、対象として、その《事実性》としての「状態」を考えることならできる。逆にいえば、即自bについて考えるためには、その前に何らかの即自xが《事実性》として、主体として置かれる---連接される---必要がある。そのような《事実性》としてしか、即自は成立しない。そして、どちらも即自(純粋経験)であるので、主体と対象は常に入れ替わり得る。
これにより、相関主義を認めつつ、《大いなる外部》を思考できる。
●《(…)現在であれ過去であれ、生の突端もしくは内部にあるそれぞれの「状態」は、それ自体としては「死後」と同じように不可解なまま孤絶しているのである。》故に、メイヤスーにとって《事実性》は生と死を中性化するものとなる。