●『響け!ユーフォニアム』、最終話。最初のカットから泣きそう、というか既に泣いているというくらいの勢いで観た。最終回のみ、今までてんこ盛りにされていた対立や葛藤や軋轢、様々な紋切り型の物語的要素がほぼ排されていて、演奏会当日の出来事と吹奏楽部の人々を、描写と演出によってきっちり見せるという風になっていた。これができるからこそ、あんなに暑苦しく紋切り型の物語をぎゅうぎゅうに詰め込んでもぜんぜん下品な感じにならないのだと思った。
基本的に、物語の本線は前回で終わっていて、最終話は物語本線とは階層の異なる「集大成」のような形になっている。そしてこのような、いかにも最終回らしい最終回が「面白い」ということはぼくの経験ではほとんどない。たいていの場合は、過剰な感傷に浸して、今までの経緯をふりかえってしみじみさせるというヌルい展開(回想シーンに感傷的な音楽、とか)が待っていることになる。しかしこの作品では、演奏会当日の様々な具体的出来事の一つ一つが、今までの経緯の帰結になっていることで、現在の出来事をきびきびと描きつつ、それがそのまま過去の経緯をしみじみ感嘆することにつながるというつくりになっている。一つ一つの場面がそれ自体としてすばらしいのと同時に、それがすべて過去の経緯に支えられ、過去の経緯を表現してもいる。
それに加え、最終回になってはじめて場を与えられたかのような人物が、それなりに目立った場面や出来事を占めているというのもとても良かった。主な登場人物たちの帰結をきっちりと示しつつも、さらにそれ以上のひろがりを、今までそれほど場が与えられていなかった人物たちに印象的な出来事を配することによって示している。これらの出来事、行為、仕草、言葉などの一つ一つをいちいち考えだし(こういうのは、物語やエピソードを考えるのよりも手間がかかると思う)、またその表現の仕方を考えて、それをほんの二十数分の時間のなかに的確に配置してゆくわけで、脚本、絵コンテ、演出などのレベルでも、この一本にどれだけ労力が費やされていることかと思う。
●最近のアニメでは、テレビシリーズ+劇場版で完結というパターンが多いので、この作品もそういう展開なのかもしれない。滝先生が見ていた写真はいったい何なのか、という、あからさまな謎というか、伏線的要素が示されていた。しかし、このテレビシリーズ13話が、それ自体だけであまりにも良くできていて完結性も高いので、これに何かを付け加えるのは簡単なことではないと思う。
●今まで書いてきたこととまったく逆のことを言うみたいな感じになるけど、最終話まで観て一番強く感じたのは、主役の黄前久美子という人物の強い存在感だ。「普通の人」こそがもっとも複雑に屈折しているということを体現しているような人物で、現実にもこういう人がいそうだ、あるいは、彼女に共感できる、という意味のリアルではなく、「黄前久美子は存在する」としかぼくには思えないという、気持ち悪いくらいの抵抗感があるという意味で、とてもリアルだ。
たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』でも、ハルヒの憂鬱や不機嫌さ、冷たさのようなものはすごくリアルで、ハルヒはそのような「感情」として存在するという感じが強くある。「ユーフォ二アム」でも、黄前の屈折の複雑さがすごくリアルで、黄前はそのような「屈折」として存在するという感じが強くある。それは、他者性のひとつの塊(あるいは指標)のような感じとして、作品のなかから立ち上がってくる。
●『響け!ユーフォニアム』は一見するとスポ根モノのようにも思われるけど、努力と根性や「熱さ」の話ではなく一貫して人間関係の話だったと思う。黄前が突如「上手くなりたい熱」におかされるのは高坂との関係があるからだ。
ただ、人間関係と言っても、人間同士の関係だけが問題なのではなく、そこには「音楽」という第三者の審級が介在する。それまでは対他的な人間関係だけで成り立っていた吹奏楽部に、滝が「音楽」という第三者の審級をもちこんだ、というのがこの物語なのではないか。「音楽」が、様々な人間関係の事情や配慮よりも優先されるという、そのような世界での「人間関係」はどうなるのか、という話なのだと思う。
たとえば、高坂と中世古のトランペットの音を聞き比べれば、人間関係の事情はどうあれ、自ずと結果は見えてくる、ということが揺るぎなく信じられている世界だと言える。しかし、実際に「現実」ではそのようなことは成り立たない。いや、高校生の吹奏楽コンクールで「勝つ」ためにはどちらがよいのか、という問いであれば確かに自ずと答えはでるかもしれない。しかし、そのような特定の文脈を抜きにして、普遍的に「どちらがよい」とは言い切れない。見方を変えれば、滝が赴任してくる前の「暴れん坊将軍」の演奏の方が「演奏として面白い」と言えてしまうかもしれない。
努力や根性は「目的」が明確にある場合にのみ物語内で無条件に肯定される。そして、目的の正しさを保証するのがメタ価値観としての第三者の審級だろう。全国大会への出場という目標を「生徒たち」が決めたというのは無理がある。その価値観は滝によって持ち込まれた。
「音楽」という絶対的な第三者の審級が、いきなり外からもちこまれることで、物語に古典的な(スポ根的な)意味でのがっちりした地盤(方向性)が築かれる。それによって、緻密で繊細な物語の構築や演出が可能になる。「音楽至上主義」に対する反発や軋轢があり、しかしそれを乗り越える価値の共有がある、という話になる。しかし現代の我々にとってリアルのなは、「絶対的な価値」がそんなに自明とは言えないというところではないか。それぞれの人にはそれぞれの事情がある。なのに、様々な顛末があった上とはいえ、みんながみんな「音楽至上主義」を受け入れるのだろうか、というところに疑問がないわけではない。この問題はこの作品では、部活をやめるという選択をする人がいるということを通じて、かすかに意識されてはいる。
もともと「音楽」至上主義者だった高坂と、いわばたんに「音楽」好きであった黄前との決定的な差異が、物語の冒頭に置かれていた。この二人はその姿勢の違いから、本来ならばたんにすれ違うだけだったはずだ。しかし、黄前が不用意に、「本気で全国に行けると思ってたの…」みたいなことをポロッと言ってしまったことによって、二人の「噛み合わなさ」が互いの心に爪痕を残すことになった。
高校に進学し、出会うはずのない場所で出会ってしまったことが、二人の関係を反転させ、抜き差しならないものにする。この作品では、異性のペアは同質性を示す。高坂と滝とはどちらも音楽至上主義的である(トランペットと指揮という「前に出るポジション」という意味でも同質だろう)。黄前と塚本のペアはどちらも元々は音楽好き(非音楽至上主義)だったと言えるだろう(高坂や滝に感化されて共に「上手くなりたい」と叫び合うことになる、という意味でも同質的だ)。あるいは、後藤と永瀬というチューバのカップルも似たもの同士と言えよう。この同質性を破って横断的で異質なカップルとなるのが、黄前と高坂という同性ペアで、この横断性が物語の芯に置かれている。
(黄前、加藤、川島という同性の仲良し三人組もまた、音楽好き、初心者、音楽至上主義者で、実は異質な者たちのトリオなのだ。特に川島における音楽至上主義者っぷりは、高坂よりもさらに強いくらいだろう。)
黄前が、わざわざ同じ中学出身者が少なく、吹奏楽部の活動もぱっとしない北宇治高へ進学したのは、あきらかに高坂とのトラウマが原因であろう。それは高坂に対する「わたしはあなたと違って音楽至上主義者ではない」という、失言についての(無意識における)言い訳のような行為でもある。高坂を避けるために進学先を決めてしまったのだとしたら、このトラウマは既に病的とも言える効果を発してしまっている。黄前にとっては、ポロッと言ってしまった一言はそれだけ重い罪の意識となっていたはずだ。
いわば、病的と言っていいくらいの屈折を抱えた主人公が、あたかもニュートラルな語り手であるかのようにして語り出すことが、全体としては古典的なこの物語に、独特のひねった味わい深さを与えているとは思う。黄前はもともと「表面を取り繕う人」である(たとえば、他の生徒がスカート丈を注意されているのをみて、自分はこっそりとなおすような)。取り繕うということは、隠すべき裏があるということで、しかし「裏がある」ということは明確でも、その裏がどのようなものであるのかは、本人も知らない。取り繕うというのは、「自分に対して」行われる行為で、しかし時々、考えが口から漏れてしまい、自分でさえも、それによって自分の本音を知るという感じではないか。
(つまり黄前は、高坂の涙によってはじめて、自分の本音――本気で全国大会を目指してはいなかった――を知ることになったのではないか。)
黄前と高坂の関係は、黄前の失言によって種がまかれ、出会うはずのない場所での出会いによって発芽し、滝による吹奏楽部の音楽至上主義的風土化によって育てられる。この関係は、黄前がにわか音楽至上主義者となり、高坂が先輩たちと「上手くやってゆく」すべを学ぶ、という形で互いを歩み寄らせもするが、本質的に異なっていることによる危うさがあり、冷たい空気と暖かい空気がぶつかり合う夏の大気のように不安定で、その不安定さが物語に妖しい魅力をはらませる。
この二人の関係の危うさ、不安定さこそ、黄前にとって必要なものなのではないか。「自動的に表面を取り繕う装置」である黄前にとって、自分に揺さぶりをかけて、「本音」や「拍手」や「鼻血」や「涙」や「悔しさ」という「奥にあるもの」を引き出してくれる存在が高坂ということになるのではないか。
しかしこの、奥にある隠されたものが真実であるという保証はない。黄前が本当に、高坂や川島と同じ強さで「上手くなりたい」と思っているのかどうかは分からない。そのような偽物性への疑いまで含めて、黄前という人物の複雑さ、ユニークさがあると思う。
(最終回でも田中は、黄前を自分と同類としてみている感じがあった。この二人は「隠されたもの」があることを強く匂わせるキャラクターとして、似ていると思う。)