●一人の人間は、複数の異なる文脈の結節点としてある。複数のフレームが重なる時、その間の、ズレや落差や矛盾や抗争が「わたし」の萌芽となり、そして、そのズレや矛盾を調整(吸収)するものとして、一つの主体、一つの身体が要請される。わたしが生きる(発生する)場所は、文脈と文脈の隙間であり、フレームとフレームの断層であろう。わたしが「空(ブランク)」であるというのは、そういうことだ。だから「空」というのは、なにもないということではなく、文脈が絡まり合うことで、ズレや矛盾が生じている場ということであり、さらに(それが「一」であることによって)矛盾がそこへと吸収されてゆく場であるということだ。「一」というフィクションへ向かって、複数の文脈の間に生じる矛盾が調整される。逆に言えば、だからこそ、その「一」という場は常に摩擦や軋轢や抗争の場である。その摩擦や軋轢こそが感覚を生み、つまり、経験が生じる(経験は「多」であるものが「一」であることによって可能になる)。そのような意味で、「一」である「わたし」とは、常に、既に、受苦的であるだろう。
しかし、わたしという「一」は、ただ吸収するだけでなく、動く。この「動く」というのは、いったいどういうことなのだろうか。たんに、諸矛盾を吸収し切れなくなって変化を強いられるということなのか。それとも、もともとフィクションであるはずの「一」が、自律的な動きを獲得するなどということがあるのか。ズレであり落差であり空でしかない「わたし」が、動く、という時、いったい何が動き、何が起こっているのか。その動きを、ズレであり落差であり空でしかないわたしが「経験する」というのは、一体どういうことなのか(それは可能なのか)。
そして、死は、常に流動する諸文脈、諸フレーム、つまり様々な流れそのものには到来することなく、その間のブランクである、「一」としてのわたしにのみ訪れる。死ぬのは「一」である者だけなのだ。