●読書ノート。岡本源太「囚われの身の想像力と解放されたアナクロニズム」(「現代思想」2013年1月号)。
表象することの不可能性ではなく、「表象しないことの不可能性」について。


○2011年ニューヨーク『セプテンバー・イレブン』展(MoMA)
→9・11を主題とした作品は70点中一点のみ(多くは9・11以前に制作)
『9・11とは無関係の作品さえもが、いまや9・11を否応なく想像させてしまう』ということを示す
◇囚われの身の想像力


→歴史と記憶の問題系
2001年フランス『収容所の記憶』展(シェリー館 パリ)
○表象の可能性/不可能性
痛ましい出来事を表象により認識・理解できるのか
クロード・ランズマンとジョルジュ・ディディ=ユベルマンの論争
→ではなく、「否応なしにイメージしてしまう」《表象しないことの不可能性》が問題となる


○「想像力」「思考」を呪縛しうる「イメージの力」→『イメージ論』の問題圏
マリ=ジョゼ・モンザン、ジャック・ランシエール(哲学)、ユベルマン、ハンス・ベルディング(美術史)、フィリップ・デスコラ、カルロ・セヴェーリ(人類学)など
→イメージの意味や内容(なにを語っているのか)よりも、機能や効果(なにを行っているのか)
(表象することの不可能性→それでもなお想像すべき)
ならば「表象しないことの不可能性」→どうする?


「表象しないことの不可能性」からの脱却
アナクロニズムの誤謬を犯しているという指摘(歴史主義的な実証主義)
眼前の作品を眺める(直接の作品経験)→こそが「囚われの想像力」
→作品制作当時の文献資料に迂回するなどして、当時の状況を再構成する(時代の眼をとりもどす)文献学的実証主義
→しかしそれは、眼前の作品を「あたかも失われてしまったかのように扱う」ことになる(なおも現前--現存--している作品に眼を閉ざして、過去を「想起」する)
→眼前の作品は何のイメージも差し出さない---ということになってしまいかねない。


○ミシェル・ド・セルロー「死の仕事」(歴史的記述は、いまなお生き残っているものをすでに死に絶えたものとして扱う)
→歴史的記述は、現在と過去とを切り離し、過去を複数の時代へ切り離し、「もはやない」という言葉をたゆまず告げてゆく(過去はもはや現在ではない、フランス革命以後はもはや革命以前ではない、ルネサンスはもはや中世ではない…)→絶えず「死」を与える
死によって、過去は「知の対象」として保持される(死によって死にあらがう→不動化する)


○ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン→ユベルマンが読み取ったこと
→「古代ギリシャ芸術が失われていること」故に「あらゆる芸術が模倣すべき不変の本質、永遠の理想」とする
〈変化〉という現実の時間が、〈芸術の本質〉という理念の時間へ転換される
◇「過去の認識のために現在の経験を犠牲にする」
→「作品」を「失われた対象」とすることで「永遠不変の理念の世界」とする


アナクロニズムを排除して、当時の「時代の眼」を得る(再構成する)ためのはずの「歴史的実証主義」は、作品を「経験」から隔絶させる


○ピエール・フランカステル
時代の社会状況を知ることの重要性を説く
→しかし、眼前の作品なしで済ますことはできない(社会状況によっては汲み尽くせない)
→作品を「時代の反映」としてしまうことへの危険
「テクストへの迂回による過去の認識」と「現前する作品の経験」の間隙を埋める二重化の道程→美術史
◇作品についての最初の直感は、歴史的認識とは隔たりを含みつつも、それを先駆ける
アナクロニズムへの危険(現在の経験)」と「想像化された過去の表象・失われたものの絶対化(テクストへの迂回)」のあいだ


アナクロニズム→×過去の作品が現在のまなざしによって誤った(新たな)意味を付与される
○「作品」は、「過去」というある一時点へと局在化されない
→複数の関連系、複数の時間---そのうちいくつかは「過去」であり、いくつかは「現在」、またいくつかは「未来」……
「作品」も、そして「眼差し」も、単純な一点へと局在化されていない
→眼差しは「記憶」をもつ
○どのように見るのか、なにをみるのか、学ばなければならない→眼差しは、別の眼差しを引き継き、「複数の眼差し」として時間の関係に巻き込まれる→眼差しは「現在」にのみあるのではない


◇「過去の作品」と「現在の眼差し」→眼差しによる事後的な意味付与---ではない
「作品」「眼差し」共に、過去を引きつぎ、現在まで生き延び、未来を……(「作品」のいくつかの時間と「眼差し」のいくつかの時間とが交差する)


アナクロニズムの二つの意味(ダニエル・アラス)
1.作品は、それを見る眼差しとは異なる時間につくられたのに、その差異が忘却される
2.作品のなかの複数の要素がそれぞれ別の時代の特徴を示している


「1」について---歴史認識の錯誤(作品の「可視性の条件」が変化したことによる)---作品と眼差しの間にある「媒介」や「障碍」が変化している
→「見えないものを見てしまう(想像力による勝手な投影)」ではなく、「見えていなかったものを見るようになる(見えていたものを見ないようになる)」ことである→「直接的な経験」(恣意的な投影ではなく、構成のされ方が歴史的に変化している)
→ならば、かならずしも「想像力」に咎があるわけではない
○ハル・フォスターの「セプテンバー・イレブン」評
「クリストのどの作品でもよかったのではなく、「赤い梱包」の形態上の特性がアナクロニズムを呼び込んだ」→想像力が能動的に誤謬を呼び込んだとはいえない(想像力の受動性)【「作品」が残り、「眼差し」とは異なる時間を紡いだ---「作品」と「眼差し」はたえず「距離(位置取り?)」をかえてゆく】


「2」について
(作品が残り、眼差しとは異なる時間を紡ぐ)→作品自体が複数の時代をまたがる
○アンリ・フォション
作品はある一連の過程(持続)の結果として生まれる(瞬時に閃いて消えるのではない)
→別の作品の「前」や「後」に生まれ、別の作品との時間的関連を引き継ぐ(「先んじて」いたり「遅れて」いたりする)→生誕の瞬間から(「残されたもの」として)複数の時間にまたがっている
「ひとつの作品」のうちに「いくつもの時間」が
「ひとつの日付」のうちに「いくつもの傾向」が


作品の生誕=(同じ日付・同じ時間)=眼差し【一致】
→なんら「理解」を保証しない
(作品は「残されたものとして生まれ落ちる」がゆえに、その瞬間--日付・時間--を越えている)
「眼差し」もまた、別の(複数の)時間を紡いできた
ユベルマン
アナクロニズムはあらゆる同時代性をよぎっている---時間の一致は(ほとんど)存在しない》
アナクロニズムは避け得ない


◆「作品」と「眼差し」との〈二重生成変化〉としてのアナクロニズム
→「表象しないことの不可能性」(囚われた想像力)の問題
1.イメージに囚われてしまう想像力の受動性
2.すべてを意味づけてしまう主観の全能性
アナクロニズム(「受動性」と「能動性」のアマルガム)
「作品」と「眼差し」の二重の生成変化のなかで揺れ動く(アナクロニズム)
→このアマルガムは歴史的所産である
→「解体可能」な「想像的装置」に支えられている
○フォスター
無関係な作品からも9・11を見出してしまう
→「出来事そのもの」に起因しているのではなく、キュレーションによって「意図的に構築されて」いる
→つまり(「受動性」と「全能性」のアマルガムは)「美術館」という装置に支えられている
→さらに、「想像力」を「美術館」に見立ててしまう発想(→「空想の美術館」)こそが、あらゆる作品の「意味」を付与したり剥奪したりする「主観の全能性」という幻想を育んでいる
◆「想像力」→美術館のごとく、万物を包摂できる「普遍的空間」と考えてしまう
→しかし、アナクロニズム(=意味を付与し剥奪する「全能性」の発動)は、アナクロニズム(=「作品」と「眼差し」とのたえざる変転)でもある
○「表象しないことの不可能性(=アナクロニズム)」は、「作品と眼差しとの距離のたえざる変転=媒介や障碍の歴史的変化(=アナクロニズム)」によって歴史化される。そしてそれが「想像力の〈複数性〉」の理解の端緒にもなり得る