形式主義は、意味や文脈を無視して一般化する。その、みもふたもなさ。
何日か前にNHKの「サイエンスアイ」でプロの棋士を負かしたコンピュータの話をやっていた。以前のコンピュータでは、可能性のあるあらゆる局面を想定して、その一つ一つに得点をつけ、できるだけ総合得点の高い局面へ向かう手が最も良い手であるという風に計算していた、と。局面に対する評価=評価関数をプログラマが入力するという形でコンピュータは将棋を学んた。いわばプログラマがコンピュータに「将棋を教える」ようにプログラミングしていたわけだけど、でもそれだと結局、コンピュータはプログラマ以上には将棋が強くならない。あるいは、それでは人の頭脳のコピーでしかなく(人ではない)コンピュータがわざわざ将棋をする意味はあまりない。その状態を打破したのは、将棋をほとんど知らないプログラマで、その人は、ある駒と別の駒とまた別の駒という、任意の三つの駒を抽出して、それらの位置関係が盤上でどのような図形を形作るのかということのみに注目して(つまり将棋の「内容」をまったく無視して、純粋に形式‐図形として)過去の数多くの対局を分析することでプログラムをつくったという。データ上で、現れる頻度の高い図形が、より多く成立しているのが「良い局面」なのだ、と(強い指し手同士の対局では、両者ともほとんどの場合で「良い手」を指すであろうという想定で考えれば、データとなる対局でどちらが勝ってどちらが負けたかすらも関係なくなる---意味がなくなる---から、プログラマ自身は何かを「評価する」必要がまったくなくなる)。そうしたら、それがコンピュータ同士で対局する世界大会であっさり優勝してしまったのだという。それは将棋(の意味)をよく知らないプログラマだったから可能だった。将棋を知らなかったから、ある「局面」の評価関数というような「意味」の重力から離脱できた。将棋が好きな人だったら、なんだその意味のない三角形は、バカにするな!、という感じではないか。そこでは「意味」というものの意味がなくなっている。まあ、そのプログラムでプロの棋士に勝てたというわけではないみたいだけど、それが一つのブレイクスルーとなったとのことだった。
解説者として出演していた人は、このような図形による認識が「人間(プロの棋士)の直感」にもあるのかもしれないというようなことを言っていたけど、それはおそらく違うのではないかという気がする。人間とはまったく違うやり方(道筋)で考えるからこそ、人間には出せない解を見いだし、コンピュータが人間に勝つことができたということではないだろうか。でもそれはもしかすると、「将棋」というものの「意味」の破壊でもあるんじゃないか、とも考えられる。
●意味も内容も文脈も無視する傍若無人形式主義が、圧倒的に「現実」に対して効率的に適応してしまい、「現状」を塗り変えてしまうという、みもふたもなさ(これは、「この世界」が実際にかなりの度合いで「形式的」にできているということをあらわすのではないか、とも言える)。我々は今、いろいろな場面でそのような事柄に直面することが多いのではないか。それは、教養や良識や伝統や文化や権威---持続され、継承され、蓄積されるもの---にとって脅威であり、だからこそそれ(形式主義)は「持たざる者」にとっての強力な異議申し立ての武器であり得(既得権の打破!)、しかしそれはテロリズムとも言えるような破壊的な力にもなってしまう。世界に破滅をもたらす(かもしれない)恐るべき子供、みたいなものとしての形式主義
それはすごいことである、と同時に、(あくまで、意味や文脈のなかで生きるしかない---40億年かけてそのように進化した---人間にとって)とても恐ろしい自己否定でもある。人間にはたぶん、意味や内容、文脈といったものを捨てることはできないし、しかし、みもふたもない形式主義をしりぞけることも、もうできない。両者の極端な落差という二重性のなかで、それをなんとかかんとか調整して---可能であればその落差そのものを生産性へと昇華して---やってゆくしかないのだろう。
●日付を間違えていたので、『夜だから』(福山功起)についての感想は昨日の日付のところに移動しました。