●『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)を、半分くらい(四章まで)読んだ。面白い。四章までは仏教の基礎的概念の説明で、本番はこれからということらしいが。下に引用するのは、この本の中心的な話題とは言えないものだが、あー、成程と、(共感的に)納得出来た部分。超俗的であるためには、ある程度は親俗的でなければならない、と。
《(…)彼(ゴータマ・ブッダ)の教説が第一に目指していたことは機根(才能)ある個人を苦なる生存状態から解脱させることであって、世界や人々を倫理的に善くすることではない(…)》
《ただし、「善も悪も捨て去る」ということは、「善とも悪とも関わりのない、そのような物語からは離れた境地」を究極的には目指すということであり、そうである以上、それは修行者が日常の行為において「善」を指向する事を妨げはしない。つまり、ゴーダマ・ブッダの仏教の究極的な目標は「脱善悪」であって「反善悪」ではないのだから、涅槃を目指す実践の障害にならない限りにおいては、自他に「楽」をもたらす「善」の行為は、積極的に推奨して構わないということである。》
《仏教学者の佐々木閑は、律とは「無産者(僧侶)の集団が、社会の人たちから『この人にならお布施をしてもよい』と敬意を受けつつ活動を続けるために必要な、『僧侶としての恰好良さ』を維持するための行動マニュアルである」という趣旨のことを述べているが、この定義は、律というものの性質を、非常によく表現したものだ。》
《(…)出家者というのは労働と生殖を行なわない無産者であり、その集団がサンカ(僧伽)である。彼らが修行活動を維持するためには、在家者からの善意の援助が必要となるし、そうであれば、彼らから非難を受けず、できれば好意をもたれることが必要である。》
《だから律の規定には、在家者からの批判に敏感に反応したものが多くみられる。》
《さて、そのようなわけで、仏教の倫理規範は、ある種の「二重構造」をもつことになる。》
《(…)仏教は一般に、社会のドグマや統治権力と対立することが比較的少なく、むしろそれらに穏当に適応して保護を受けることで、長い年月を存続してきた。》
●今日の仕事。