●『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)。初期の、ゴータマ・ブッダの仏教において目標とされているのは、いま・ここ・この身体において「世界を終わらせる」ことで、涅槃・解脱・悟りとは「世界の終わり」に達する境地のことだ、と。そして、涅槃や解脱は決して無限遠点にあるものではなく、修行によって現世において到達可能であり、それを目指すべきもので、ゴータマ・ブッダが示しているのはそのための実践的な方法である、と。そして実際に、ゴータマ・ブッダの示すプロセス通りに修行をすることで、彼の言う通りの涅槃の境地に達することができるからこそ、仏教は二千五百年もつづいてきたのだ、と。《書いてあることを、書いてあるように実践したら、書いてあるとおりのことが起こりました》ということだ、と。
この本では、前半で仏教思想の基本的なところが語られ、後半で、「悟る」ということが具体的にどういうことなのかが示される。さらに、少なくともゴータマ・ブッダの仏教は、ただ個を救うためものであり、悟ることが、「この身体」において世界を終わらせる(縁起、つまり因果関係の外に出る)ことであるならば、悟った時点で自己完結しているはずだが、ならばなぜ、ゴータマ・ブッダはそのまま沈黙せず、あるいは、すぐに死んでしまわず、自分の得た「悟り」へと至る技法を他者に広めようとしたのか、が語られる。
縁起の世界は「苦」である(ここで「苦」は、日本語におけるニュアンスとはやや違い、英訳で「unsatisfactoriness」とされる概念である)。だからそこから外へと解脱する。その意味で仏教は脱社会的なものである(理想の世界をつくろうとするものではない)。しかし、解脱とはたん世界の外に出ることではなく、涅槃を「直覚」することであり、直覚が可能であるのは「涅槃という無為の領域」が存在するからだ、とする。涅槃とは「ある/ない」という対立そのものが成立しない境地であるはずなのだが、「ある/ない」がない領域が存在する、とする。あるいは、涅槃とは経験であるが、それは《対象と観察が停止する》ような《すべてが終焉したような感じ》の経験だという。つまり、経験が消失するような経験だと言える。
そして、悟りとは実存の瞬間的な転換であり、一度「悟り」を経験すると元に戻ることはなく、《これが最後の生であり、もはや再生することはない》と自覚するのだという。つまり悟りは、「物の見方を変える」というようなことではないし、あの時は確か悟ったと思ったんだけどあの感じを今では忘れてしまった、ということはなく、渇愛=欲望によって織り上げられた世界を、「完全に終わらせる」ものだという。
(『「意識」を語る』で確かヴァレラが、瞑想を極めた人の脳の分析をすべきだということを言っていて――そして訳者解説で山形浩生がそれをおもっいっきりバカにしていたのだけど――「悟る瞬間」をとらえるのは難しいとしても、「悟った人」の脳がどうなっているのかはふつうに考えてとても興味深いのではないか。)
(悟りに至るには、戒・定・慧の三つの段階があって、「戒」は戒律であり、生活を律したり――仏教は労働と生殖を否定する――「気づき」の実践につとめるという日常的な修行だが、「定(サマーディ)」は瞑想のような変性意識を伴うもので、このような「強引な」跳躍がなければ、その先の「智慧」には到達できないとされる。この「跳躍(変性意識)」は唯物論的に、脳の組成に還元することによって説明が出来る、と、考えることも確かに出来るだろう。そして当然、そちら側からの追求も行われると面白い。しかし、「悟り」が本当にこの本に書かれているようなことならば、そこに生じる一人称データ――クオリア――を無視することは出来ないと思われる。)
●だが、すべてを「終わらせ」、涅槃に至った者が、なぜそれ以降も生き続け、また、自らの技法を人に伝えようとするのか。実際、ゴータマ・ブッダは当初、自らの「悟り」について他人に伝える気はなかったという。ぼくはこの部分にもっとも興味を感じた。
まず、涅槃に至った者には、《いま・ここに存在している、「私」と呼ばれるこのまとまりが、他の全ての現象と同様に、一つの「公共物」である》と、明瞭に自知されるという。花が花としてあるように、私はただ私としてあり、意味もなく無意味もない。そのような境地の者は、存在することを「ただ楽しむ」のであり、すべては「遊び」であるという。そのような者は、生を愛好する必要はないが、わざわざ嫌悪する必要もないのだ、と。
《彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、さらに己自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見してもいる以上、彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も「芻狗(すうく)」のように捨て去ることを、決して厭いはしないのである。彼らにそれができるのは、慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなくて、むしろそれが、「何かそれ以外の大切なもの」を別のどこかに確保しておくことの全くない、純粋な「遊び」そのものであるからだ。》
《(…)眼前の「衆生」と呼ばれる現象は、それが本来「公共物」であることに気づかずに、「それは私のものであり、それは私であって、それは私の我である」と考えて「世界」を形成し、自縄自縛の苦しみに陥っている。解脱者たちも、かつては凡夫であったがゆえに、それが彼らにとって「事実」であり「現実」の苦として作用していることをよく知っているから、それを「ただ助ける」ことにするのである。》
あらゆる執着から自由である解脱者にとって、生きることは純粋な「遊び」であり、徹底して利己的であることも、徹底して利他的であることも、その中間のどの段階であることも、どれもまったく変わらないことになる。ならばたまたま「ただ助けることにする」ということが起こることもある。ゴータマ・ブッダのように、気根のある衆生だけ救おうとする者も、『十地経』の菩薩のように、一切衆生を一人残らず救おうと決意する者もいるし、独覚として、悟ったことを誰にも知らせずに生を終える者もいる、と。
●もし、仏教の実践がこの本に書かれている通りだとすれば、物心ついた頃からずっと感じている「独我論の恐怖」を消してくれる可能性があることなるなあ、と思ったのだった。