●『人間の建設』で岡潔は、数学の根拠に身体的なものがあるというようなことを言っている。例えば、自然数の「一」という概念を体得するのはだいたい生後十八ヶ月くらいで、そしてそれは≪全身的な運動≫として知るのだと言う。ラカンとかだったら、ここで何故「一」が成り立つのかを一生懸命理論化するのだけど、岡潔では、とにかく「一」が自然に現われるのだ、という感じになる。おそらく、このような身体的に自然に現われるもののことを情(情緒)というようなものとして捉えているのではないか。
≪自然数の一を知るのはだいたい生後十八ヶ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、そこを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。≫
≪数学は一というものを取り扱いません。しかし、数学者が数学をやっているときに、その頃できた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。しかし数学者は、あるかないかわからないような、架空のものとして数体系を取り扱っているのではありません。自分にはわかりませんが、内容をもって取り扱っているのです。そのときの一というものの内容は、生後十八ヶ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。≫
≪私がいま立ちあがりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうものが一というものです。一つのまとまった全体ということになりますね。だから一のなかでやっているのかと言われる意味はよくわかります。一の中に全体があると見ています。あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。≫
●そして、順序数もまた、身体的な体得だという。
≪順序数がわかるのは生まれて八か月ぐらいです。その頃の子に鈴を振ってみせます。初め振ったときは「おや」というような目の色を見せる。二度目に振って見せると、何か遠いものを思い出しているような目の色をする。三度目を振りますと、もはや意識して、あとは何度でも振って聞かせよとせがまれる。そういう区別が慄然と出る。そういうことで順序数を教えたらわかるだろうという意味で言っているのです。(…)おもしろいのは、二度目を聞かしたとき、遠い昔を思い出すような目の色をする。それがのちの懐かしさというような情操に続くのではないか。その情操が文化というものを支えているのではないか。≫
●そのようなことから、数学を支えているのは知・情・意の「情」であるという感覚が導かれているようだ。
≪数学がいままで成り立ってきたのは、体系のなかに矛盾がないということが証明されているためだけではなくて、その体系を各々の数学者の感情が満足していたということがもっと深くにあったのです。初めてそれがわかったのです。人がようやく感情の権威に気付いたといってもよろしい。≫
●そしてこの感じは、全知全能の存在(如来)と、無知無能な個とが、「情」を媒介にして交流するという仏教的なヴィジョンにつながる。岡潔においては、数学というものがおそらくそういうものとして捉えられている。ここまで来てようやく、岡潔が「情緒(情)」という言葉に込めている意味が少しわかってくるように思う。
≪仏教に光明主義というのがありますが、それは中心に如来があって、自分があるというのがはじまりで、私はそれがほんとうだと思っています。全知全能の大宇宙の中心である如来と、なぜまったく無知無能である個人との間に交渉が起こるかということは不思議なことかもしれない。しかし全知全能な者は無知無能な者に、知においても意においても、関心を持たない。情において関心を持っているのです。全知全能の者から見れば、無知無能の者は珍しくて、あわれで、可愛いのではないか、そこで交流が起こるのではないかと思うのです。情というものは知や意とはだいぶ違うのです。≫
●14日の日記で引用した≪それまで霧しかなかったところに山の姿の一部が出てきた≫という部分は、上記のような「情」を媒介とした「如来」との交流というイメージなのだろう。だからここで情とは、わたしが世界に対してもつ情というより、世界(如来)がわたしに対して示す情が、わたしにおいて現れるということになるだろう。
我々が普通「情」という言葉から連想するのは、岡潔が否定する「無明」というニュアンスが強いものだろう。無明とは仏教の言葉で、人間が生きようとする盲目的な意思のことで、≪自己中心的に知情意し、感覚し、行為する≫こと、いわば人の業のようなもので、これは「情緒」とは区別される。無明に支配されている個は小我であり、小我にとらわれることが、わたしが個性として(固有の色として)生きることを妨害する、と。
●しかしその一方、情を通じて把握することの限界のようなことも言ってはいる。それは、情の限界ではなく、情によっては理解することの出来ないところまで「積み上げられ」てしまった文化への危機感のようなものとして表明されている。例えば、数学の言語は≪大学のマスター・コース≫まで行って学んだ人でなければ理解することができないもので、≪すぐれた人が数学を知りたとおっしゃっても、そのもとめに応じられぬ≫ようなものに、数学がなってしまっていることへの危機感として語られている。
≪(…)一つの言葉を理解するためは、前の言葉を理解しなければならない。そのためには、またその前の言葉を理解しなければならないというふうに、どうしても遡らないと説明できないから、いま聞いて、いますぐわかるような言葉では言えないのですね。≫
≪これがもっとふえたらどうするのかということなりますが、欧米人がはじめたいまの文化は、積木でいえば、一人が積木を置くと、次の人が置く、またもう一人が置くというように、どんどん積んでいきますね。そしてもう一つ載せたら危ないというところにきても、倒れないようにどうにか載せます。そこで相手も人も、やむをえずまた載せて、ついにばらばらと全体がくずれてしまう。いまの文化はそういう積木細工の限度まで来ているという感じがいたします。≫