●延滞してしまっている本を返すために図書館まで歩く。四十分くらい。今日はわりと良い陽気で、歩いていると洋服の内側が汗ばんでくるほどだった。本を返し、また何冊か借りて、建物を出たところで、噴水のまわりのベンチにいい感じで日の光が当たっていたのでちょっと座ってみることにした。ベンチは噴水をぐるっと取り囲んでいくつもあるが、木陰が出来るような配置で樹も植えられていて、日が当たっているベンチは限られている。平日の昼間なので、ベンチに座っているのはぼくの他には、隣のベンチ(そこもよく日が当たっている)のおじいさん二人組だけだった。おじいさんたちは選挙の話をしていた。
ベンチで、今借りてきた『岡潔集 第二巻』を開いた。開いたページで岡潔は、ピカソのことを書いていた。ピカソは「無明(むみょう)」を描いている、と。
≪無明というのは仏教の言葉で、(…)生きようとする盲目的意思のことである。盲目的であるにせよ、ともかく生きようとする意思のことなのだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少なくとも六道のうちの最高の序列にある人・天の二道における無明は程度が知れていると考えていた。しかし、ピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意思がどんなに恐ろしいものかよく分かった。≫
岡潔は、展覧会の帰りがけには、人がどの顔も無明が見えてしかたなかった、というか、人の顔が無明そのものになっていたと書いている。そして翌日眼を覚まして、自分の無明は自分には見えないのではないかと気づき、鏡で顔を見るのだが、やはり自分のは見えないのだった。≪人のは見えても、自分のは決して見えない。このこと自体が無明の働きなのであって、無明の本当のおそろしさはここにあるといえる。≫そして、だからピカソは自分の絵が無明であることがわかっていなかったにちがいないと書く。
ピカソほど無明をうまく描いた絵ははじめて見たと岡潔は書く。ピカソの絵は力強く、それは無明のもつ力強さだ、と。≪たしかに無明には美の粧いがある。そしてきわめて力強く働きかける。男性の心を強くひきつけてやまない、そんな種類の女性があるのがその端的な例といえる。≫だがそれは美ではないとも書く。≪ここには芥川龍之介のいう「悠久なものの影」は見当たらない。≫≪私の好きなセザンヌの「水浴」だってピカソの横に置くには力が足りない。美というものは位の高さなのであって、働きの強さではないからである。≫
ああ、岡潔セザンヌを好きなのか、と、うれしくなる。そして、美は位の高さであって働きの強さではないという言葉に感動する。
ところで、無明とはいわゆる生命力のようなもののように思うかもしれないが、そうではないという。それは猛獣なのだ、と。≪無明を働かせるのが生きるということだと思っている人すら多い。(…)そうではない。無明をしりぞけながら進むのが「生きる」ということなのだ。生命力は無明からきているのではなく、むしろ無明によって邪魔されているのである。昔から仏教では、無明を自分と思うなと教えてきたのだが、今なら無明を生命と思うなと教えたほうがよさそうだ。≫
この辺りまで読んだところで、それまでポカポカと暖かかった日の光が弱まって、風の冷たさも感じるようになったので、本を閉じてベンチから立ち上がった。
つまらない蛇足をすれば、ピカソの膨大で多様な仕事のすべてを「無明」という一言で片づけるのはあまりに乱暴だとは言える。細かく見ていけば、必ずしもここで言われているような「無明」のみをみることが適切でない作品もあるし、他にもみるべき可能性は多々ある。しかし、偏狭な専門性などを取っ払ったおおざっぱな把握として考えれば、これはすごく鋭く、目から鱗が落ちるような指摘だと思える(そしてこれは、基本的には小林秀雄『近代絵画』のピカソ論と通じている)。よくある、ピカソと言えば「生命力」みたいな紋切り型に近いようでまったく違う。美術とか美術史とかの文脈に深く入り込んでしまっていると、こういうシンプルなことが見えなかったりする。
というか、ここで岡潔ピカソのことを書いているというより無明のことを書いている。ピカソは無明を説明する例のようなものである。しかしそれが結果として、無明によってピカソが説明されもするという逆向きの作用も生まれる。例とか比喩とかはこのように、説明されるものと説明するものとの逆転が可能となり、むしろ説明するものの方が説明されるというように、双方向に働き得る時に信用に足りる精度を得ると言える。
●11月に撮った写真が少なかったので、今日、図書館の行き帰りに撮った写真をアップする。