⚫︎絵で、陰影を使って空間を表現しようとすると、どうしても色が濁る。ピカソの絵で、しばしば色が濁ってしまうのは、ピカソがどうしても陰影から自由になれなかった人だからだろう(ピカソの立体が素晴らしいのは、立体には陰影をつける必要がないからだと思う)。しかし、陰影を使うことが必ずしも色を濁らせるわけではない。たとえば、最近のアニメのカラーリングでは、影の部分を暗くするのではなく、色相をずらした色を使用することで、陰影をつけつつ、色がきれいに響き合うということが実現されている。黄色の髪の毛に、肌色に近いピンクの影を入れる、というようなことだ。
陰影を使いつつ、色を濁らせないというのは、(「マティス」になる以前の)初期のマティスのやっていることでもある。たとえば下の絵。
ここで、顔の正面のキャンバス地が残されている明るい部分に対して、顔の側面は黄土色と抹茶のような緑色で描かれ、明らかに「影」として低い明度で捉えられている。しかし、黄色に近い赤(黄土色)や緑は、明度が低くても輝度は低くないので、明暗の差はそれぼど強くは意識されない。
さらに、背景に、白が混色された明るいセルリアンブルーのような絵の具が置かれている。青は、とても輝度が低く、人の目にはとても暗く感じられる。だからここで、明るい青と暗めの黄土色の対比は、明度としては明暗の対比となるが、輝度としてはけっこう釣り合っている。だから。明暗として感じるよりも、澄んだ色の響きとして感じる度合いの方が大きくなる。
また、画面向かって右側では、顔の明るい前面と、背景の暗めのエメラルドグリーンがぶつけられている。この暗めのエメラルドグリーンは、向かって左側の背景の明るい(白が混色された)セルリアンブルーと対比関係にある。ここでは、混色された青は明度は高いが彩度が低く、緑は明度は低いが彩度が高い。だからここでは、明暗(明るい青と暗い緑)として解釈することもできるように見えつつも、彩度としては逆転しているので、たんじゅんな明暗関係(主従関係)にはならず、色同士が同等に拮抗して、きれいに響く。
明暗の「明」の部分を担っているキャンバスの地の色は、クリーム色がかった抑えめな色であり、「真っ白」のように飛び抜けて明るい色ではなく、彩度としても絵の具の塗られた部分よりかなり抑えめなので、「暗(陰影)」として塗られた色彩の部分こそが鮮やかに前面に出てくるという側面がある。つまり、明暗としての主従と、鮮やかさとしての主従が逆転しており、両者が拮抗している。
逆転した主従が拮抗しているのだから、これもまた「虚の透明性」だとみることもできると思う。
(色相、彩度、明度、輝度という風に「色の属性」を分けて考えると説明しやすいが、こういうことは理論的にやっているのではなく、あくまで「感覚」としてやっていて、その「感覚」こそが重要なのだが。「感覚」といっても「なんとなく自由にやっている」わけではないと言いたいのであって、実作者としては「色の属性による分析」にあまり囚われすぎるのも良くないと思う。)
⚫︎輝度(きど)について。