●「ポイエーシスとプラクシスのあいだ エリー・デューリングのプロトタイプ論」(武田宙也)という記事を読んで、ここで書かれていることと、ラトゥールのアクター・ネットワーク論やジェルのアート・ネクサス論とが、きわめて近い感触をもっているように思われたのだけど、この記事では狭い意味での「アート」(アート界)の文脈のなかに限られた話題になっていて、そのような名前は触れられていない。
http://repre.org/repre/vol18/note/03/
それで、「エリー・デューリング」という名前で検索してみたら、岡本源太さんがブログに多数の記事を書いていて、そこではラトゥールやセールなどとの関連も指摘されていて、ああ、やはりと納得できた。
http://d.hatena.ne.jp/passing/searchdiary?word=%A5%A8%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%C7%A5%E5%A1%BC%A5%EA%A5%F3%A5%B0
ここで、≪ときおりカンタン・メイヤスーの名前は――エリー・デューリングと並んで――耳にしていて、ミシェル・セールからブリュノ・ラトゥールへの流れとの親和性から多少気にしてはいたものの、いつのまにやら大きな動向になっていたよう≫と書かれているので、デューリングという人は、メイヤスーラトゥール、セールというようなライン上にいるということだろう(だとすば、ジェルやストラザーンなど人類学との関連もきっとあるのだろう)。
そもそも「プロトタイプ」というのはジェルからきているのでは?、とか思ったけど、デューリングの言うプロトタイプは、武田宙也さんの記事を読むかぎりではジェルで言えばインデックスに近い概念みたいだ。前にこの日記で書いた、ジェルのアート・ネクサスについて。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130227
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130301
●「スペック」劇場版「天」をDVDで。劇場版だからテレビ版よりは豪華に、派手にしなくちゃいけないという思い込みがあまりうまい方には転んでいなくて、作品としては「翔」に比べるとかなり落ちる感じではあった。栗山千明は上手く機能していたと思うけど、伊藤淳史と浅野ゆう子があまりうまく機能していなかったとも思う。伊藤淳史が「俳優の伊藤淳史」として出演している意味があまりなかったし(本編に出ていたエグザイル役のエグザイルの人はけっこう上手くいっていたと思う)、浅野裕子の扱いは演出として完全に失敗だと思った(浅野ゆう子は「こういう使われ方」しかしないところが不幸だと思う)。
とはいえ、豪華にしようとしたところは失敗していても、物語として、一見大きな話(大きな世界観)を語っているようでいて、実はその場その場で成り立つチープなネタの積み重ねでしかないというスタンスは守られていたので(変に、ちゃんとした話、ちゃんとした構築にしようとはしていなかったので)、「劇場版になっていままでのものが台無し」ということにはなっていないと思う。加瀬亮の「力み」が本編→「翔」→「天」と、だんだんエスカレートしてきているように思うところと、渚カヲルくんもどきみたいな、白ずくめの謎の男が出てきたところは笑った。(追記、「スペック」の加瀬亮の頭部は、ときどきジェコメッティの彫刻の頭部のように見える。)
「スペック」の面白さは、物語や世界観ではなく、あくまでキャラとネタが優先されているところで、しかしそうはいっても、小ネタが小ネタとしてバラバラにあるだけではなく、ネタとネタとの意外な関連が後になって分かるというところにあると思う。つまり、物語を語るために個々の場面があるのではなく、一つ一つのネタがまずあるのだけど、そのネタの関係性が結果として一つの物語を形づくり(ここでネタ間ネットワークとしての物語のあり様がよくある物語とはちょっと違う)、その背後にある「世界」の気配をも感じさせるというところだと思う。とはいえ、背後にある「世界観」の気配をあまり強く感じさせないように、あくまで流れとしての意外性や、その都度でのネタとしての面白さ(というより、ネタのチープさ)が前面に出てくるようにつくられている、そのさじ加減が絶妙なのだろう。出たとこ勝負で、後からつじつまを合わせているような無理やり感が面白かったりする。ネタはあくまでチープであり借り物であり、そのチープなネタとネタとの関係が、「平板なもの(ポップ)」に留まるのでもなく、しかし「深さ(世界観)」をかたちづくるのでもない、その中間の薄い厚みとして成立する「物語」をつくっているという感じ。物語がそういうもの(物語がきちっと構築されているというより、チープさやノリによって大きく左右されているのだけど、しかしそれなりにつじつまは合っていて出鱈目でもいいということでもない――劇場版「シュタゲ」のようにつじつまの合わないところを強引に感情で押し流すようなことはしない――という感じ)としてあることのリアリティ。
一方で、それなりにシリアスな物語を一貫性を保持して展開させつつ、もう一方で栗山千明が演じているような、かなり寒い感じの薄いキャラ(まさに、栗山千明が演じそうなキャラのパロディのようなキャラ)を平然と成立させているというのは、けっこうすごいことなのではないだろうか。例えば、竜雷太が時々、いきなりシリアスなキャラになってシリアスなことを語りはじめたとしていも、その雰囲気が後をひくことなく、「みやびちゃーん」とか言っている普段のキャラに切れよくスパッと切り替わってゆく、このキレの良さと、そのギャップが平然と両立する作品世界というのは、一つの達成と言えのではないか(これは、クドカン・ドラマの小劇場的な内輪ノリと一見似ているようで、まったく違うものなのではないだろうか)。竜雷太が「心臓が息の根を止めるまで…」云々とか言い出すようなシリアス要素が、この作品のなかで余計なものとして浮いていたりしない(しかしそれもまたチープなシリアスさであり、それ自体として厚みはもたない――最後になってシリアスで引き締める、みたいなことはしない)。改めて観てみないとはっきりとは言えないけど、「ケイゾク」や「トリック」では、ここまでのきっぱりして振幅の激しい分離・共存は成り立っていなくて、物語の方もネタに合わせてチープな方向に寄っていたように思う。
あとやはり、何度も書くけど戸田恵梨香と加瀬亮のキャラがすばらしい。この二人と竜雷太のとフォーメーションが既にがっしりと出来ているからこそ(一方に作り込まれた、ある完成度と安定性をもつキャラが存在するからこそ)、栗山千明のような薄いキャラが作中で十分に機能するのだと思う。栗山千明が演じている役のようなポップなキャラが成立するポップな映画は他にもありそうだけど、おそらくそのような作品空間には戸田恵梨香が存在しない。
●最近、この日記にいちいち感想を書いていないものも含め、テレビドラマをDVDなどでかなり大量に観ているのだけど(今期のアニメにイマイチ面白いものがないということもあってのことだけど)、さすがに少し飽きはじめている。でも「スペック」はかなりとびぬけた感じで飽きない。「スペック」に関しては、なんとなく流して観て、日記に感想を書いて終わりにするのではなく、何度も繰り返し観て、(例えば「マンハッタン…」と比較するとかして)もっとちゃんと考えなくてはいけない、それだけの質のある作品だと思った。