2020-12-15

●倫理の問題を美的に判断するかのような物言いをしないようにしようと、とても思う。たとえば、昔あった「いじめ、かっこ悪い」みたいなのとか、差別主義者に対して「ダサい」と罵倒したりするのとか。差別は「ダサい」から駄目なのではないし、仮にダサくない(かっこいい)としても倫理的に駄目なのだ。

おそらく、我々の心のなかの「道徳観」では、倫理的なものと美的なものとは混ざってしまっていて、切り離すことが難しい。人類は誕生してから歴史的にずっと、美的なコードのなかに倫理的なコードを埋め込み、倫理的なコードのなかに美的なコードを埋め込んできたのだと思う。でもだからこそ、言語化したり論理化したりする時には、意識的に分けて、違うものとして考える必要があるのではないか。

(そこをちゃんと分けないと、倫理も美も、どちらとも、その根拠がどんどん弱くなってしまうと思う。)

ダサくて恥ずかくて馬鹿げたことでも、倫理的に悪くないことは倫理的には悪くはないので勝手にいくらでもやっていい。美的な観点から、自分はあんなことだけは死んでも絶対にやりたくないと思うことを、他人がやっていたからといって、それだけでそれを責めることはできない。というか、責めてはいけない。

(だが、嫌うことはできる。特に理由を示すことなく、ただ嫌だというだけで嫌ってもいい。自由に嫌えるというのが美的な領域の問題だろう。)

(しかし、ただ嫌うことと、嫌いだと表現することとは違ってくる。嫌いだと表現することは、場合によってはそれ自体で暴力となり得る。あなたは倫理的に間違っていると表現することは暴力ではないとしても、あなたは嫌いだと表現することは暴力となってしまうことがある。)

だからこそ、倫理的に間違っていると言う時に、「嫌いだ(ダサい、かっこわるい、醜い)」と言ってはいけないのだと思う(「悪い」「間違っている」と言わなければならない)。すごく言いたくなるのたけど、抑制しないと。