●ギャラリーαМで観た村上華子展が面白かった。
ある意味、キャプションの言葉だけあれば「物」はなくてもコンセプトは伝わる。キャプションの横に添えられたようにある「物」は、一応、キャプションで表明されているコンセプトをパフォーマンスとして示している。しかし、そこに「物」があることによってコンセプトが補強されたり、「物」がコンセプトの証拠(根拠)となったりしているようには見えない。コンセプト文に対して、むしろ「物」はそっけない。あるいは、コンセプト文に対して、「物」は邪魔者であるとまでは言えないにしろ、どこか居心地が悪そうでよそよそしく見える。そのような、コンセプト文と「物」との関係が、なんかおかしくて、笑える。
「物」は、コンセプト文で示されたコンセプトを実演(パフォーマンス)している、という風に書いたけど、過程としてはおそらくは逆で、ある面白そうな(使えそうな)「物」を発見し、その「物」に対するアプローチを思いつくという出来事が先にあって、そこから、後付的にコンセプト文が練られているのだと推測される。しかし、「物」は、コンセプト文なしに「作品」として自律しているようなものではない。説明がなければ「そこ」で何が起こったのか分からない。さらに、コンセプト文によって説明された後に、あらためてその「物」を観てみても、そこにある「物」は依然としてそっけなくて、何かありがたいもののようには見えてこない。
そして、そのコンセプト文は、コンセプトの説明にとどまらず、文章それ自体としてかなり面白い。むしろキャプションの方が自律して強くあるかのようだ。ならば、別に「物」はなくても、コンセプト文だけあればいいのではないかとも思ってしまう。しかし、そう思ってしまっている傍には事実として「物」があり、「物」は「物」としての一定の存在感がある。その「物」は確かにコンセプト文と関係していそうだし、そこに書かれている通りの事情からこの空間に運び込まれたのだろうと納得できるが、コンセプトを受け止め、受肉する媒体というまでには感じられず、そこに何かを過剰に読み込もうとする視線をいなすように、そっけなくある。その感じが、なんとも面白い。
おそらくここで「作品」とは、「物」でもコンセプト文でもなく、「物」とコンセプト文との、このような妙な関係なのだと思われる。いや、そんなに簡単なことではないか。
まず、展示されている八点のコンセプト文(キャプション)には、それぞれ共鳴的、あるいは隠喩的、換喩的な関係が結ばれている。もっと簡単に、一貫したテーマ性の感触のようなものがあると言ってもいい。しかしその関連性は、そこに置かれている八種類の「物」たちの間にはほぼ感じられない。そして、コンセプト文と「物」とは、一対一対応している。しかしその対応はどこかか弱いもので、「物」はコンセプトの魂を体現しているとまでは言えない。一応、コンセプト文を実演してはいるが、その実演の表現性は低く、それ以外のこと(「コンセプトを表現する」という目的からするとノイズであるようなもの)の方を、強く表現している(おそらく「そっけない」という印象はそこからくる)。
つまり、テキストとテキストとの間には強い共鳴関係があり、テキストと「物」の間には弱い関連性があり、「物」と「物」との間にはあまり関連性がない(むしろ切断の印象がある)、というような、概念と知覚と想起との複雑で奇妙なネットワーク(オン/オフ)が形作られていて、それこそが「作品」なのだろう。
(つまりこの「作品」は、知覚できる三次元の空間とは別の次元にある。)
「物」と「物」との間に関連性がほぼ感じられないということが、展示空間を「美的」なものにすることを抑制しているように思う(それに対し、コンセプト文はけっこう美的であり、詩的であるという対比も面白い)。この、「物」が美的になることへの強い抑制が、展示空間に乾いたユーモアを漲らせているように感じられた。
画廊のなかに植物が持ち込まれても、まったくエコな感触がなくて、ただ場違い感だけがあり、それがとても可笑しい、という状況をつくりだすのは、なかなかすごいことではないかと思う。