●割合最近に、東京新聞に執筆したレビューを、いくつかまとめてここに転載しておきます。まず三本。

『資本空間 ―スリー・ディメンショナル・ロジカル・ピクチャーの彼岸 vol.2 村上華子』ギャラリーαМ
2015年5月30日〜7月4日
http://gallery-alpham.com/exhibition/2015_2/


一枚の千円札、十枚の百円玉、カードにチャージされた千という数字。紙、白銅、情報。物としてもイメージとしてもまったく似ていないこの三つは全て千円として等価である。しかし千円という価値の実態はどこにもなく、価値は、異質なものが等価として交換されるという事実のなかにだけ現れる。
本展における「作品」は、どこにもない「千円」と同様のものだ。会場には、物と(キャプションに記された)文章がある。千円札や十枚の百円玉が「千円そのもの」ではないように、そこにある物も言葉(文章)もそれ自体が作品ではない。では作品はどこにあるのか。それは間にある。
会場には八組の一対一対応する「物と言葉(文章)のペア」がある。物と言葉は、作品とその解説ではなく等価であり、アイデア(概念)とその実行という関係にある。つまり、物と言葉の間には、論理的、因果的な規則に基づく関係がある。一組を一点と考えることも出来るが、会場全体として作品を構成する八×二個のパーツと考えることもできる。全体として考えると、対をなす物と言葉だけでなく、言葉と言葉、物と物の間にも関係が生まれる。
八つの文章にはテーマ的な類似性が感じられ、つまり言葉と言葉の間には、連想的、イメージ的、詩的な関連がある。物と物との間には一見して明らかな関係性はみられないが、同じギャラリー内にあることで、空間的配置関係を必然的にもつ。言い換えれば、物と言葉の関係は論理的空間、言葉と言葉の関係は想起的空間、物と物の関係は知覚的空間を開くように関係づけられている。
物と言葉は一対一で関連し、言葉と言葉は全体として密接に響き合っているが、物と物との関係はそっけなく見える。八つの言葉と物のペアを追ううち、それを観る/読む者は、頭=論理(物と言葉の間)、心=想起(言葉と言葉の間)、体=知覚(物と物の間)が、それぞれに別に働きだすのを感じるだろう。
紙幣と硬貨と情報が、物質として別の系列に属しながら、交換の成立によって等価となり得るように、会場の「わたし」は、頭、心、体という異質な秩序の間に成立し得る交換を試みる。交換が成立する保証はないが、そのような試みを誘う、物と言葉の関係のさせ方こそが作品と言えよう。
(「東京新聞」2015年6月19日 夕刊)

『無条件修復 UNCONDITIONAL RESTORATION Pre-Exhibition』milkyeast
2015年4月25日〜5月22日
http://milkystorage.tumblr.com/post/116376820496/unconditional-restoration-pre-exhibition


割れた陶磁器を漆で接着し、繋ぎ部分を金で装飾する金継ぎという修復技法がある。これには、オリジナルの復元と、修復をした事実を示すという二つの意味がある。ある器がかけがえのない物だとするならば、それが一度は壊れたという事実もまた、そのかけがえなさに含まれる。
そこに複製と修復の違いが出る。複製は限りなく同一に近いものを反復させることだが、修復は元々あった物に「修復する」という行為が加えられる。さらには、失われた部分を類推して付加することさえある。修復とは、元の物を存続させるために手を入れる(変化させる)ことでもある。
「修復」が同時に「作品」であり得るのか。それは、元になった物を存続させながらもそこに別の意味を描き加える時に可能だろう。その時、作品は寄生生物のようだ。しかしここで言う寄生者は、宿主を滅ぼし支配するものではなく、宿主に依存すると同時に存続を支えることで並立する。例えば、私と腸内微生物とは相互依存しているが、互いに自律してもいる。一つの物(場所)に二重の魂が宿る。
会場となるミルクイーストは、活版印刷所として使われていた築五五年の木造建築で、アーティスト集団の作業場兼住居であるが、二階部分の梁が腐食で傾いている。「ミルクイーストのためのジャッキアップ機構」(坂川弘太+瀧口博昭)は、文字通り、傾いた梁を支えて建物を構造的に補強する機構であり、同時に作品である。
梁の重さを支えるU字に曲がったピンク色の単管パイプは、一階から二階へと天井を越えて伸びている。一階でそれを観ると、支えるというより上から垂れたという印象の軽やかな彫刻のようだが、二階で観るとジャッキが梁を支える様が見える。だが二階では重さを受ける接地部分が見えないので、力の解決しない不思議な重力感覚が生じる(二階の床が薄いので尚更)。建物を支える構造上の機能とそこから得られる感覚がズレていることで、「修復」と「作品」とが両立する。
出品作家十八名の作品は、修復と作品という問いへの其々の解答として自律した作品でありつつ、作品たちは、修復中の建物に包摂されることで関係づけられ、同時に、作品により建築空間も変容する。企画と会場と作品の間に密な相互作用が生じている。
(「東京新聞」2015年5月15日 夕刊)

『ガブリエル・オロスコ―内なる複数のサイクル』東京都現代美術館
2015年1月24日〜5月10日
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/gabrielorozco.html


九〇年代から活躍するガブリエル・オロスコの日本で初の個展となる。
レシピアント(受容するもの)という概念の重要性をオロスコは強調する。それは粘土のようなものだと言える。粘土は、外からの力を受けて形を変え、その形を一時的に保つ。粘土は、形を変えることで力との出会いを受容し、形を保つことでその出会いを表現する。だが、新たな力が加わると形は崩れる。しかしそれは、新たな力と粘土との出会いの印である。レシピアントとは、ただ移りゆくものでもなく、堅牢な構築でもなく、何かをひと時留め置くものだ。
写真はレシピアントである、とオロスコは言う。それは、その時その場でだけ成立している物事の関係(出会い)を保存する。それを撮影することは、物事と撮影者の出会いの保存でもある。物事と撮影者の関係は、写真となることで、写真と観者との関係へと変換される。後者は、前者の再現なのではなく、それ自体が新たな出会いを構成する。作者の視線は特権化されず、作者の出会いが観者の出会いを媒介する。
オロスコの作品では、行為者(力)と物(例えば粘土)の関係は対等だ。行為者が物の形を変形させるだけでなく、物の形が行為者の行為を変化させる。「ピン=ポンド・テーブル」という作品では、X型に組まれ四人が対面する形になった卓球台の中央に水槽が作られている。この作品は鑑賞するためではなく、実際に卓球を行うためにある。卓(物)の奇妙な形が、ゲームをする人たちに従来とは別のルールや別の体の動き生むことを要求する。行為する身体もまた粘土のようにレシピアントなのだ。
作者と観者、行為者と物との等価性は、表と裏、実と虚の反転物の等価性へも繋がる。「コープレガドス」シリーズは絵画であるが裏からも観られる。丸石を素材とした彫刻では、石の凸型の丸みと削られた凹型の丸みという実と虚の球形が拮抗する。「インナーカット」シリーズでは、ブーメランを作った板の余り(残された部分)の形が新たに彫刻の形として再発見される。
行為が形を変え、形が行為を変える。どちらが主でどちらが従とは言えない出会いの相互作用が、世界の様々な物事を関係付け、また解いてゆく。オロスコの作品はその様をひと時留める。
(「東京新聞」2015年3月6日 夕刊)