●「新潮」5月号の蓮實・浅田対談で言われていることは、乱暴に要約すれば、「見ることの出来ないもの(見えていないもの)」が常にあるのだということに対する畏れや緊張を、そこからくる慎みを、見ることの出来るもの(イメージ)を具体的に「見ること」から学ぶことの出来ない奴は駄目だ、ということだと読んだ。だからここで言われているのは決して「教養(見ているもの=知っていることの量)」の欠如という問題ではない。(インターネットやDVDやCGなどによる)見ることの出来るものの増大は、決して「見ることの出来ないもの」を消し去りはせず、むしろ、「見ることの出来ないもの(見えていないもの)」があるという事実への畏れを増々浮かび上がらせるはずなのだが、しかし、人はしばしば、見ることの出来るものの増大がそのまま、あらゆるものをくまなく見ることの可能性に繋がると無邪気に思い込み、見ることの出来ないもの(見えていないもの)が常に存在してしまうという(唯物論的な?)事実を(畏れを、慎みを)都合よく忘れてしまう、と。(勿論、見ることのできるものの増大は、相対的には好ましいことではあるだろう。)以上のような意味で、浅田氏による《当たり前のことながら、われわれの知らないところでもそういうものが書かれているだろうという可能性に賭けるしかないんじゃないでしょうか》という言葉が、その恐るべき博識と同じ口から発せられていることの重さを感じなければならないだろう。
●訂正。かわさきIBM市民文化ギャラリーでのぼくの個展は、やはり「会期中無休」でいいみたいです。