●昨日(日付的には今日になっていたが)、展覧会の撤収から部屋へ戻ってテレビをつけたら、「ブラタモリ」の三田・麻布編をやっていて、(途中からだけど)観て、東京という土地-空間が内包する底知れない豊かさに(大げさだけど)震撼させられた。たとえ、その「豊さ」が排他的なものであり、それを享受できるのが、ごく一部の特権的な人たちでしかないとしても、そんなことは、世界に「この豊かさが存在する」ことに比べれば、どうでもいいことなのではないだろうか。例えばそれを、すべての人にとって容易に、等しくアクセス可能であるという「正義」によって、どこの駅前でも行われるような再開発のような形で「均して」しまうことは、世界そのものへの許しがたい侮蔑であり凌辱なのではないだろうか。このような考え方は反動(反革命的)だろうか。この「豊かさ」が存続するためならば、ぼくは、ぼく個人の生においては、積極的に貧困を受け入れてもかまわないのではないか、と思うのだが。
ガマ池を見ることが出来るのが、超高級マンションの住人だけに限られているとしても、それが、ある特定の階層の特権意識をくすぐり、その自己保存と再生産に貢献するもの(社会的階層の固着化)として機能してしまうのだとしても、それがあることは、それ自体がなくなってしまうことよりもずっとマシなことではないだろうか。ましてや、その存在をテレビ番組で「知る」ことが出来るならば、実際には決して見ることの出来ないそのガマ池の存在が、私の生をどれほど豊かにするだろうか。決して私の手に触れることがないとしても、ガマ池が「存在する」ことが、私の生にとってどれほど大きな救いになるだろうか。