2022/08/23

●間が空いてしまったが、『世界は時間でできている』(平井靖史)、第二章「どうすれば時間は流れるのか」を読んだ。ベルクソンの、持続=相互浸透というような言い方は、感覚的にとても腑に落ちるがゆえに、逆に、警戒心を抱いてしまうところがあるのだが、ここではきわめてクリアに記述されている(層を積んでいく思考法から、『言語にとって美とはなにか』を連想したりする)。以下、引用、メモ。

●現在の幅、現在の「厚み」

《『物質と記憶』の第三章に、「現在とは何のことか」と題されたセクションがある。そこで彼は「流れた時間」である過去との対比で「流れつつある瞬時を現在と呼ぶ」(…)と述べて、「流れ」の場として「私の現在(…)」を導入する。ついで直ちに、彼はこの「私の現在」が幅ゼロの数学的な瞬間ではなく、一定の幅を持つことを指摘する。そして引き続く論述で、その現在の幅が、「私の身体(…)」という「運動-感覚システム」の時間的な仕様によって定まることを示す。》

《つまり、ある生物にとっての感覚クオリアはその感覚様相での「ミニマムな経験単位」に相当する。他方で、流れが成立するためには、その生物のなかに、もう一段上の時間階層(階層2 「現在の幅」)が存在し、その幅がこの瞬間に比して十分に大きく、複数の瞬間を含み込めるのでなければならない。つまり今度は、階層1と階層2とのスケールギャップが問題になってくるわけだ。そして、今度のスケールギャップは、物質と生物ではなく、同一の生物個体内部---ただし内部といっても生物身体の空間的内部ではないのだが---での階層の違いになっている。》

《(…)階層1については前章で引用したように、ベルクソン自身が二ミリ秒という具体値に言及しているのだが、現在の幅(階層2)については具体的な値は提示されていない。実際それは、人間の場合は一個人のなかでも流動的・可変的なものだと考えられるから、あまり固定的な値に縛られるのは良くないのだが、およそ〇・五秒から三秒くらいをイメージしておいていいだろう。》

《階層2の幅について、ここで最低限押さえておくべきは、上の階層、階層3(記憶)との境界である。ここでは「現在の幅」の意味を「記憶」との対比で押さえておくことにしよう。それは直観的な言い方をすれば、「思い返すことなく保持できる幅」のことだ。例えば、誰かが「こんにちは」と発言したとして、「は」が聞こえた時に最初の「こ」を振り返って思い出す必要がある人はいない。》

《(…)ベルクソンは、「私の現在」、「私の身体」と、これみよがしに一人称観点を強調するのを見逃してはならない。これは、一人称観点を備えた体験する「意識」が、この時間階層でもたらされることを示唆している。つまり、ここにおいて「流れ」と「流れを体験する意識」とが一緒に成立するわけだ。現に、彼はすぐに続く段落でこう述べる。「これはつまり、私の現在とは、私が私の身体についてもつ意識に存しているということだ」(…)、と。》

《(…)流れ経験が成り立つためには、システムの絶対的な時間長ではなく、システムの「瞬間」(階層1)と「現在の幅」(階層2)との相対的な落差が開くことが必要だ。各階層の時間的延長を「幅」で表すことを踏まえて、この二つの階層の落差の大きさを時間的「厚み」と呼ぶことにしたい。例えば、現在の幅として最小の五〇〇ミリ秒(見かけの現在)をとり、二〇ミリ秒を最小単位とする視覚で単純計算すれば、二五倍(二五要素分)の厚みがある計算だ。大きい方をとれば、現在を三秒として聴覚の二ミリ秒で一五〇〇要素入る。私たち人間にとっては、「たった一息の」現在の幅に、数十から千ものクオリアが流れ込みうるということだ。》

●「厚み」だけでは「流れ」ない

《(…)厚みは必要条件であって十分条件ではない。そのことは、凝縮の仕組みを考えればわかる。凝縮とは、時間構造の量的識別を下げることで、代わりに質空間の次元を開くものだった。ベルクソンは、下位の諸瞬間を「継起的であるのに、全部一緒に現れる」(…)ようにさせるこの凝縮の働きを指して、「知覚するとは不動化することを意味する」(…)とさえ述べている(…)。》

《つまり、階層0-1で起きたのと同じ凝縮が1-2で起こるとしてもそれで説明できるのは「もう一階層上の質次元」の創発にとどまり、それは相変わらず「点」的でしかない。》

《(…)前章で観た凝縮は、階層1の瞬間一つ分の物理事象の凝縮で、そこから得られるクオリアのことを「感覚質」と呼んでいた。これに対応させて、階層2の凝縮で得られるもののことは「体験質」と名付けることにしたい。こちらはベルクソンではなく私が導入する非公式用語である。》

《ドやミの音色が質であるように、ドレミやドファレを一つの質と考えてみてほしい。実際、各音を区別するのを差し控えながら(いわば耳を細めて)、二つのメロディを耳にしたときでも、両者は質的に識別される。これが体験質だ。あとになって、細部は思い出さなくても雰囲気は分かるとき、アクセスしているのがこの体験質だ。だが、これは流れではない。(…)それは一つの質に潰れてしまっている。》

●体験の継起は継起の体験とは別物である(ジェイムズ)

《「赤いボールを見る」、「青いボールを見る」、「緑のボールを見る」という三つの体験が次々に切り替わるということと、「一つのボールが赤から青、緑へと色が切り替わっていくのを見る」という体験をすることとは別である。(…)赤の体験→青の体験→緑の体験という具合に三つの体験が客観的に移りゆくとしても、それだけではその移りゆきは誰も体験していない。》

《(…)動画は静止画を並べたものでしかない。その通りである。だが、まさにそれゆえに、動画自身は流れを体験しない。流れを体験しているのは、動画を見ている観察者のほうである。今の被説明項はこちらなのだ。(…)再生ボタンを押して「再生」しても、再生されている動画自身は、やはり流れを体験しない。パラパラ漫画をパラパラしているとき、漫画自身には何も流れない。》

《(…)この論点の背景には、次のようなもっと一般的な原理がある。つまり、現象質は、たくさん集まっても勝手に一つの大きな現象質にはならない(…)。国民の一人一人が意識を持っていても、それだけで国家が意識をもつことにはならない。》

《さて現実には、私たちは流れを体験してしまえている。つまり、ただ各「瞬間の体験」が並ぶだけでなく、並びそのものが体験されている。これが意味するのは、各瞬間だけでなく並び自体も質になっていなければならないということだ。そして、前章で時間クオリアと呼んでいたのは、まさにこの流れに由来するクオリア成分のことであった。》

●相互浸透

《(…)持続には、各瞬間に体験される内容がどういう性質のものであるかが、前後から切り離して単独では決まらないという特徴がある。具体的にはメロディーを聴く場合をイメージしてもらえると分かりやすいだろう。例えばドレミと音が鳴ったとする。それを耳にする私にとっては、真ん中に聞こえたレは、例えばはじめの音がドではなくファだったとしたら、あるいは後ろに続く音がミではなくシだったら、同じようには聞こえなかっただろう。そして同時に、全体の印象もドレミとファレシでは大違いである。つまり、持続のなかでは、先立つ時点の印象の余韻が後続する印象に影響し、逆に後続する印象次第で先立つ印象の感じ取り方も変わってくる。特に後者のような現象は、時間を逆行しているように見えるため一見不思議だが、後で見る理由からとても重要である。》

《全体と部分の影響もまた双方向的だ。要素が揃って全体が一方的に決まるのではなく、全体が要素を左右しもする。(…)私たちの現在は、単純に前から順番に物事が確定し、加算されていくような作りになっていないのだ(…)。》

《(…)経験は、起きた端から順に固定されるわけではなく、後からくる経験を待っており、それらと相互浸透し、一緒に組織化される。「下位の面では、それらの記憶は、自分がそれにもたれて立てるような支配的イメージを、言ってみれば待ち望んでいたのである」(…)。》

《(…)一つ一つの知覚は、定まらず、「宙に浮いて」いる。これら一つ一つの要素的な知覚は、全体の記憶次第で取り扱いが変わるようなペンディング状態に置かれている。》

《(…)階層2の体験質を「記憶」と言ったが、それが記憶なら、階層1が揃って初めて、その後で出来上がるのだから、階層2の記憶が階層1を決定するという向きはあり得ないのではないか(…)。》

ベルクソンに詳しい人なら、ここで彼の「現在の記憶」説を思い出すかもしれない。その基本的な主張は、〈記憶の成立は知覚の成立と共時的である〉というものである。私たちは普通、〈記憶というものは現在の知覚経験が終わってから事後的にできる〉と考えがちだ。しかし、ベルクソンはそうではないと述べて、この常識的な考えを批判している。(…)現在の窓は有限で絶えず上書きされる。だから、記憶はその「今」に作られなければ手遅れだからである。》

《(…)普通「同時的」は、二つの時点が重なることを言うのに対して、「共時的」は、二つの異なる時間・期間が重なることを指す。(…)》

●階層0-1の凝縮と階層1-2の凝縮との「違い」と、「並び」の顕在化

《(…)二つのケースでは重要な違いが一つあることに気づかされる。それは、階層1-2では、素材となる階層1の要素が、互いに質的に識別される点だ。階層0-1の時には、素材となる階層0の瞬間の各々は、互いに質的に異ならない等質的振動であった。そのため凝縮において順番は問題とならなかった。(…)だが、凝縮される要素がそれぞれ質的に異なるとなると、話は変わってくる。》

《ここから新しい問題が生じる。初めて並びを決めなくてはならなくなるのである。そもそも階層1の凝縮は、時間的粗視化によって失われる量的な識別可能性をどうやって補填するかという問題に対して、自然が編み出した創発的解答であった(識別可能性空間の変形)。ところが、厄介なことに、まさにその解答が、今度はその上の階層で、劣らぬ新たな難題を作り出してしまう。要素が質的になってしまったせいで、今度は並びを決めなくてはならなくなったのだ。だとすれば、この新たな難題に自然が捻り出した創発的解答が、「流れ」だと考えてみることができるかもしれない。》

《(…)例えば宇宙に階層0しかないとき、そこに向きを語るべきいかにる理由もない(絶えず再発される現在)。その場面で、そこに向きを読み込んでしまうのは、システムを外から見ている私たちからの「持ち込み」である。》

《だが、「流れ」は違う。階層1と2の間では、他ならぬシステム自身が、その向きなるもの自体を創設しつつあるのだ。》

●向きや順序はどうやって決まるのか(アオリスト相現在と未完了相現在)

《(…)階層1自身にとっては、その都度あくまで一瞬しかない。そしてその瞬間は記憶も予期も持たないから(それらを実装するのが階層3である)、そのままでは各クオリアは、その前後についていかなる情報も持たない。どちらが先か後もない。(…)》

《片や、階層2は時間的に拡張されており、階層1の単位を複数個凝縮して一つの質をなしている。こちらは奇妙なことに、すでに並びの情報を含んでしまっている。現に、私たちは後になって、潰れてしまった体験質の記憶から、並びを再構成することができる。それが可能なのはドレミの体験質とミレドの体験質が質的に異なるからである。つまり、体験質は、流れの情報を含んで成り立っている。》

《とても解けそうにない難問である。階層1ではまだ決まらないし、階層2の体験質ではすでに決まってしまっている。おまけにこの二つの階層が共時的だというのだ。》

《ここで目を移して、結果として私たちが現象的に享受している現実の持続と、手元のモデルを比較してみよう。すると、あることに気づく。モデルの各階層に登場する現在が、すべてアオリスト相現在だという点である(アオリスト相というのは文法用語で、点的・完結的に捉えられた動作のことを指す)。他方で、私たちの現在には、別のあり方、すなわち未完了相現在がある。つまり、動的に展開されつつある進行形という現在のあり方である。「相」(アスペクト)は、過去・現在・未来でお馴染みの「時制」(テンス)と別個のカテゴリーである点に注意してほしい。》

《ここから予想されるのは、自然がまさにこの問題を解くために、時間そのものにこの未完了相現在という新しい領域を追加したという仮説である。それは、過去や未来への時間的拡張ではない。それは時間的延長とも時制(tense)とも別カテゴリーの、相(aspect)という時間次元の新規開拓である。ここまで、「客観的」には幅はあっても、システムにっとては凝縮された点的な時間しか存在しなかった。それがこの階層で初めて、システムにとっての幅が成り立つと同時に、この決まりきらない/決まりつつある時間相が切り拓かれた。そんなことをベルクソンは考えているのではないか。》

●未完了相現在として創設された「現在」

《アオリスト相のもとでは、開始はただちに完結を意味してしまうから、開始ということ自体が独立に成り立たない。脳状態のことをベルクソンが何度も「作用の開始」(…)だとか、反作用を「開始しつつ準備する」(…)と---「生まれつつある反作用」と並んで---表現することに拘るのは、アオリスト相との対比を意図しているものとして理解できる。だから、同じことを終止に未達だと言い換えてもいい。『試論』のある箇所で、有機的に組織される流れは、「つねに終止する寸前の状態にある(…)」のだと記述される。》

《(…)「生じてはいるが出来上がっていない」という、この「つつある」「間隙」のあり方、細部の状態がペンディングされた現在進行形=未完了相という時間のあり方自体が、宇宙にとってまったく自明なものではないということを認識しなければ、ベルクソンが何の問題に立ち向かっているのかさえ見てとることはできないだろう。》

《(…)時制のはざまに新たな時間相をこじ開ける緊張とそこからくる不安定さは、そこにしか見いだせない際立って独自なありよう、私たちがしばしばリアルタイムの現在と呼ぶ時間のあり方を創設する。私たちが、今この瞬間にだけ感じる「不確かであることの臨場感」とでもいうべきものは、そこに起因するのかもしれない。それを成り立たせている「厚み」のある現在に開闢する時間相の隔たりを、ベルクソンの言い方に倣って私は「時間的内部」と呼びたい。そして、持続する意識は、この時間的内部に目を覚ますのだ。》

《「時間が流れる」のは、階層と階層の隔たりが拓く時間的内部においてだけである。逆に、「原物質(…)が問題になる限り、流れを無視しても重大な間違いを犯さずに済む」(…)。流れだけが本来的な意味での現在、つまり未完了相の意味での現在であり、階層0や階層1を現在と呼ぶのは名目的な呼び方に過ぎない。》