タモリは、坂道や段差や蛇行する道が好きだという。ぼくも、それらはヨダレが出るくらい好きだ。しかし、それらの面白さを、実際にそこを歩く過程のなかに見出すのではなく、キーワードのように、例えば「坂道」と名付け、名付けられたことによって対象化されたそれ(何々坂)を、好事家のように鑑賞する、ということになってしまうと、その面白さは消えてしまう(「タモリ倶楽部」でマニアックな対象を取り上げる時でも、その視線が、半ばマニアの側に立ってその内的過程を記述しようとするのか、それを外側から「妙な物」として描写しようとするのかによって、面白かったり、面白くなかったりする)。
以前、樫村晴香さんから、フランスのあるゴルフ場にある坂道を登っていると、その時だけ「死ぬことが怖くなくなる」という話を聞いたことがある。それがどんな場所なのか、その時の感情がどんなものなのか、ぼくには想像することが難しいのだが、でも、地形とか地理とかいうものと身体の関係には、他の何処でもない、そこでなければ感じられない(物語や比喩の入り込む余地のない)固有の何かというしかないような具体性がある。
そして、そのような固有性、具体性を、実際にその場に行ってみる、という以外のやり方で示すとしたら、逆説的に、高度に抽象的で形式的な操作が必要となるのではないかと思う。それは、場所の固有性を翻訳する、というような操作ということになる。
展覧会で、来てくれた人から、絵画というのはとても抽象的なものだから、それを観るのに高度なリテラシーが要求されてしまう、例えば、具体的な物を使ったインスタレーションなどは、その物や素材が日常ではどのような文脈に属しているかを知っているから、その作品において物の意味がどのようにズラされ、変化させられているのかが見えやすく、異質な物と物とがどのように組み合わされているから、このような空間が成立しているのだ、というようなことを読み取るきっかけがつかみやすいのだが、対して、絵画では、例えば、色とか線とか筆触という要素しかないので、手掛かりや入口となるものをつかむのが難しい、という話を聞いた。つまり、日常的な視線からの延長、その拡大や深化として作品を捉えること(連続性)とは別の(非連続的な、特別な語彙としての)「絵画」のためのリテラシーが必要とされてしまうのではないか、と。
言われていることはすごく分かるし、ぼく自身、そのことは、いつも、とても気にしている。絵画は常に、通常とは別の「絵画を観るための目」を必要とし、それを観る側に要請してしまっているのではないかと思われても仕方がないような、あるよそよそしさというか、すっと入っていけない壁のようなものを感じさせてしまう。単純に言えば、普通に物を見る態度とはちがった、かしこまった態度を人に要求している、かのように感じさせてしまう。例えば、小説には読み方などなく、ただ、今の自分が持っているすべての能力を使って、本のなかの文字を追い、書かれたことを聞き取ろうとする以外に、特別な「やり方」などありえないのと同様に、絵に見方などなく、ただ、目の前のものを自身のすべてを使って観て、感じ取ろうとすればよいのだし、それ以外の近道やアンチョコなどありえない(だからこそ、作る側だけでなく、観る側もズルが出来ないし、その人自身が本当に試されてしまう)。ぼくはそう信じて、そういう態度で制作もしているつもりなのだが、しかしそれでも、あたかも「絵画のための特別なリテラシー」が必要であるかのように感じられてしまう、そのような距離感が、何か余計なものが一枚挟まっているような感じが、実際にあるということは、ぼく自身もまた、認めざるを得ない。
でも、最近気付いたのだが、その距離感は、決して「絵画のためのリテラシーの要請」ではなく、抽象化、形式化にともなう、自然的な態度からのある種の切断によるのだと思う。そして、なぜ日常的、自然的な態度からの切断、抽象化、形式化が必要なのかと言えば、抽象化、形式化を経ることによってしか示されない、具体性、固有性の感触があるからなのだ。ある固有の土地を歩く時の、複雑に交錯する角を曲がり、蛇行した坂道をのぼり、細い路地を抜けてゆくという感覚の、その具体性を、異なるメディアへと変換してもなお同等の具体性として表現するためには、風景を、あるいは歩く行程を「描写する」だけでは足りなくて、(荒川修作のように実際にそのなかを歩ける巨大な建築物を作るのでなければ)、抽象化、形式化する複雑な操作のなかで、複数の感覚が繰り返し変換され、翻訳されてゆく過程によって、それを(それと同等の経験として)示すしかないように思われる。
抽象化、形式化するというのはつまり、まったく類似するところのない(比べることすら出来ないような)異なる種類の経験同士が、ある時ふと、同等の重さをもって響きあってしまうこと(を目指すこと)なのだと思う。