●「わかるやつにはわかる」「わかるやつにしかわからない」というのは、決して特権意識とかではない。たんに、すべての人が、すべてを等しく理解できることなどない、というだけのことだ。わたしには、これは分かるが、あれは分からないかもしれない。しかし、あなたは、あれは分かるけど、これは分からないかもしれない。そしてその違いは、その人がその人である限り、その人がその人の身体として生きる限り、宿命的でさえある。きちんと勉強さえすれば、誰でもがなんでも分かるというわけにはいかない。一人一人の人はそれぞれが、その貧しい宿命と限定のなかで生きる。つまり、誰でもが「すべてを知る」ことは出来ない(すべてを知っている人はどこにもいない)のだから、そのことの限界と貧しさを自覚して、そのことへの畏れをもって、ある限定されたつつましさのなかで、考え、行動するべきだ、というだけのことだ。
それなのに、それを、誰でもが分かる形に通分し、要約し、説明し、公の議題に乗せ、共有される座標上に位置づけろ、もしそれが出来ないのであれば、それは、合理性がなく、インチキであり、勉強不足であり、神秘主義であり、独我論的であり、特権意識であり、既得権の保護であり、仲間内で閉じているのだ、などということにされてしまう、そのような言説の暴力には抗わなければいけないと思う。
●(科学というのは基本的に、同じ条件のもとで、同じ手続きを踏めば、同じ結果が(誰に対しても)与えられるという関係を、この世界のなかに見出し、それを関数として示すことだろう。そのような意味で科学は絶対的に民主的で平等なものだ。しかしそれは、ある厳密に限定された範囲のなかで、ある一定以上の精度をもつ抽象的な形式的操作として行われるという、重層的な「限定」の上ではじめて成立する。論理は、それが厳密であればあるほど、自身のつつましさや限界を自分自身によって示すことになろう。
だが、そのような思考が日常的な(社会的、対人的な)場にまで零落して現れると、誰にでも分かる(納得できる)形でそれを説明しろ、それが出来ないならば、それを信用することは出来ない(それは信用するに足りないものだ)という形で作用することとなる。)
●その上で、つまり、共有される地盤や座標が成立しないなかで、わたしとあなたとで、どういう話が出来るのか、あるいは、わたしとあなたとを共に「震わせる」ものは何なのか、わたしとあなたとは(神以外の)何によって媒介され得るのか、ということが問われなければならない。
この時、物語や比喩や要約が危険なのは、人をなんとなく分かった気にさせてしまうところだ。物語や比喩や要約は、理解というよりも説得のための技術であって、感触や内実をともなった理解と、それを受け入れることを受け入れさせるという説得(納得)との差異には敏感でありたい。もちろん、説得、納得が重要であることはまったく否定はしない。お互いの間に、説得、納得が成立しなければ社会は成り立たない(だからこそ、説得・納得は常に政治-権力-暴力とかかわるのだが)。ただ、理解する(触れ得る、出来る、震える、驚く、畏れる、貫かれる)というのは、それとは違うことだと言いたいだけだ。
これは別に、(ポストモダン相対主義とセットになった)他者という概念の神格化みたいなことではない。ある部分は共有できるが、別の部分は共有できない、というだけのことだ。それは「男と女の間には、深くて暗い川がある」みたいな、きわめて通俗的なことですらある。「女にはわかんねーよ」「男にはわかんねーよ」「ヘテロにはわかんねーよ」と互いに思っており、互いが互いにそう思っていることを知っていたとしても、それを通観し統一する視点はどこにもないし、その必要もない。だからといって、そこに闘争的関係「だけ」しか可能ではない、などということもない、というようなこと(それは、闘争的関係が「ない」ということでもない)。