『庭園の会話・3』展(菊池敏直・是枝開・馬場恵・松浦寿夫)を観に行く

お茶の水にある文房堂ギャラリーに『庭園の会話・3』展(菊池敏直・是枝開・馬場恵・松浦寿夫)を観に行く。この4人の作家の絵画作品で、観る価値があると思われるのは松浦寿夫(松浦寿輝ではないです。念のため。)の作品だけだった。(まあ、始めから松浦氏の作品を観にいった訳だからいいけど。)松浦氏の作品の特徴は、良い意味でも悪い意味でも「アマチュアっぽさ」にあるように思う。もう既に画家としてかなり長いキャリアをもっている松浦氏に対して、アマチュアっぽいというのは失礼な言い方かもしれないのだが、しかし松浦氏はまず何よりも優れた美術批評家であり、その次の次くらいに画家であるのだ。(ちなみに批評家の次は大学教師だろう。)松浦氏の作品からは、常に「余技」といった感じの「余裕」が漂っている。しかし絵画というのはそんなに甘いものではなくて、「余裕げ」であることと「良質」であることが同時に成り立ってくれるのはとても稀なことでしかないのだ。松浦氏の作品は、「余技」であることの「余裕」がそのまま作品の「良さ」に繋がっているという点で希有のものだと言えるだろう。ぼくはここ10年間以上の松浦氏の作品を、発表された全てという訳にはいかないにしろ、かなりコンスタントに観続けているのだが、今までの作品には、「アマチュアっぽさ」がややもすると「弱さ」や「甘さ」に繋がってしまいかねない感じがあったのだけど(例えて言えば、堀江敏幸氏の本の表紙にピタッとハマッてしまうような「適度なインテリ的な上品さ」に回収されてしまう感じ。)、今回展示されている、ごく小さくてささやかな小品たちは、言葉の最良の意味での「アマチュアっぽさ」を体現しているように思えた。ぼくは今回の作品を観て、バルトが『彼自身によるロラン・バルト』に書いている絵画についての記述、「もし私が画家だったら、ひたすら色を塗ることしかしないだろう」とか「絵画は、攻撃性抜きの性欲が可能になる唯一の場所だ」といった言葉(手元に本が見つからないので、引用は記憶による。したがっていい加減。)を思い出すのだった。「余技」としての絵画がいかに難しいかという事は、バルトによって描かれた絵が、実際にはバルト的な「快楽」とはほど遠く、たんに「趣味のよい絵」に終わってしまっていることからも明らかだろう。松浦氏の絵画は、バルト自身よりもずっとバルト的だと言えるだろう。(そして同時にボナール的でもある。)もし、上手な画家だったら、あんなに危なっかしくて中途半端な紫色の使い方はしないはずなのだ。(しないはず、と言うのはつまり出来ないと言うことだ。)そしてその紫の危なっかしさは、身震いするほどスリリングである。(ぼくが「あの紫」にこんなに反応してしまうのは、あまりに「絵画マニア」でありすぎるせいなのかもしれないのだが。)岡崎乾二郎氏の『ルネサンス・経験の条件』のあとがきに、《常に制作、理論両面で同志でありつづけた松浦寿夫》という記述があるのだが、もし本当にこの2人の仲がよいのだとしたら、それはこの2人の資質が全く異なっている、ということからくるのだろうと感じる。(岡崎氏の作品は、バルト的な、蛞蝓が這うような触感=官能とは全く無縁の場所にある。)松浦氏は、自身で書いたこの展覧会についてのテクストで、この世界が「いつも大きな声ばかり響きわたって」いることに対して嫌悪をあらわし、次のように書いている。《たとえばあの誰もいない庭園のいくつもの小さなざわめきに耳をかたむけてみることもできないだろうか。世界は無数の小さな声に満ちている。これらの声を聴取可能なものとすること、この世界の震動の拡がりそのものと化すこと、それが庭園という場ではなかったか。ちょうどひとつの作品のように。》しかし、この美しい言葉に見合うような作品は、この展覧会場には、松浦氏の作品しかなく、他の作家の作品は、小さな声を聞き分ける耳も持たないのに、ただ小さな声で喋っているだけにしかみえなかった。