●ぼくが、一昨日、昨日、と書いてきたことを、もっと的確に、かつ、もっと深くまで届くように、岡崎乾二郎が既に書いていたということを思い出した。それは、2003年に、かわさきIBM市民文化ギャラリーで行われた松浦寿夫・展の図録に書かれた「極薄の深さ」というテキストだ。(この日記でも引用したことがあるはずだった。)このテキストは岡崎氏によって書かれたもののなかでもとりわけ素晴らしいもので、図録の2ページを埋めるに過ぎない短い分量でしかないのだが、『絵画の準備を!』(岡崎乾二郎松浦寿夫)という本まるまる一冊に充分に拮抗するくらいの密度があり、そこから多くのものを得ることが出来る。
《食事の時間はそれを準備する時間に比べて悲しいほどに短い。食事が日常生活に占める最も重要な行事であるのは確かであっても、それは摂取した食物を消化する行為ですらもない。それを受け持つのは胃腸であり、彼らはその地道な消化作業に、料理にかかった時間と同じか、それ以上の時間を費やす礼儀をわきまえている。けれど食事はといえば、いかにもそれが仰々しい作法を伴うとしても、ただ食物が口腔を通り過し胃袋に落下するするまでの一瞬の出来事に過ぎなかった。》
《実際、誰もが知っているように、食事そのものよりはるかに豊かな経験を与えてくれるのは、料理の時間であった。この豊かな密度で展開される過程、複雑で多層化された時間が、労働として意識されてしまうとすれば、単純に料理の時間では、その経験を与えてくれる当の対象すなわち食物を摂取すること、つまりそれを直接所有することが禁じられているからだ。たとえ自分が食べるのだとしても料理のあいだはそれを我慢しなければならない。ひたすらその権利は食べる人間(自分自身も含めて)のために保存されておかれる。食べてはいけない---この禁止によって、料理は食べる人間に対する奉仕=下働きだと位置づけられる。》
《とはいえローゼンバーグがそのアクション概念を見出すきっかけが、いわゆるアクションペインターではなく、まさに見ることを食べることと等価におき語ることで知られた作家ジャスパー・ジョーンズ(『批評家は食べる』という作品さえ残している)だったことは注目しておいてもよいだろう。ジョーンズばかりでない、デ・クーニング、そしてポール・クレーと実際ローゼンバーグの挙げた作家は揃って優れた料理人だった(決してグルメだったわけではない)。》
《手の知覚を重んじたアンリ・フォションが援用されるとき、ローゼンバーグがアクションという言葉で名指そうとした事柄の核心が何であったかが明らかになる。制作の場面において、手はそれ自身、物質として化学的変容過程に直接介入していく。手はそこで物質的変容を起こす素材の一つである。作り手の行為だけがアクションだったのではなく、素材と行為がまさに物質的に織りなされる変容過程そのものがアクションとして捉えられるべきであった。》
ジャスパー・ジョーンズが蜜蝋を扱う、それとほとんど同じ手つきで食用のパテを製造する場面を目撃した多くの人がいる。しかし、それが食用であるかないかにどれほどの違いがあるのだろう。ジョーンズは一方で蜜蝋の塗り込められた画面に食らいつき歯形を残したりもしている。歯形が示しているのは蜜蝋と画面の織りなす組成そのものといってもいいが、眼はそこに奥行きを捉えてしまう。画面を味わいつくすことができず歯がゆく感じているのはここでは眼である。その歯がゆさが奥行きと呼ばれている。》
《絵画にも地と図があるように、料理にも生地と具がある。いうまでもなく単純に見えて、もっとも複雑なのは地であり、生地である。味覚であれ視覚であれ一瞬の知覚で把握しがたいもの---しかし絵画や料理の全体の特徴を大かた決定してしまう、すべての謎はここに練り込まれている。そこに口という身体が手という身体がそして最後に眼という身体が直接介入する。
クレープやお好み焼きは生地ですべてが決まるのであって、そこに被せられる多彩な具の数々は愚鈍な味覚や視覚を欺く偽の対象にすぎない。誰もが知っているこの組成を実際に把握できるのはただ料理の過程においてだけだった。》
《入念に混合された素材と時間、こうして下地に練り込まれる多層的な過程は味覚だけでは決して味わいきれない。(略)熱とともに空気と時間までが練り込まれたクレープの極薄な広がりと奥行き。同じ様に薄く、かつ深いクールベの曇り空。これを味わうにはその化合過程をみずから試してみるほかないだろう。物質的変容に投げ込まれる手、そしてそれ自身物質として折り込まれる眼と舌。食べるのであればプレーンのクレープ。味わうべきは木々の間に広がるほんの少し卵が溶かし込まれたような乳白の空である。世界の謎はここにだけ織り込まれている。》