●今期は、アニメがあまり面白いものがないので、借りてきたDVDで映画を観る時間の余裕がある。
『マッドマックス 怒りのデスロード』をブルーレイで観た。この映画に関しては、面白さよりも、製作者たちの真面目な努力に圧倒されるというか、頭が下がる感じだ。面白いか面白くないかと言われれば、ぼくにはそれほど面白いとは思えない。でも、ここまできっちりと、ちゃんと作り込むには、さぞ大変だっただろうという、そういう感じが映画からひしひしと伝わってきて、本当に真面目な人たちが努力を惜しまずにつくったのだろうなあというところに感動する。
この映画のもつ「勢い」は、製作の段階で決して「勢い」や「感覚」にまかせることなく(個々の細部のつくりは常に手堅くて、勢いで突っ走る、というところはない映画だと思った)、膨大な学習と、努力を惜しまず絞り出される多量のアイデア、アクションの段取りの緻密な作り込み、そしてアイデアやアクションを実現するクオリティに関して決して妥協しない、という、努力に努力を重ね、さらに努力を上乗せするような過程を経ることによって実現される密度からきているのだと感じられた。
お話も、登場人物も、アクションの一つ一つも、デザインも、どこかで見たことがあると言えば、言える(というか、ただ「行って、帰ってくる」だけ、そして「ひたすら直線運動のみ」という単純な構図の上に全てを乗っけるという潔さがある)。でも、その一つ一つがきっちりと作り込まれ、高いクオリティが平均して維持され、それらが密度濃くこれでもかとぎっしり詰め込まれている。これだけのアイデアを出すためにどれだけ多くの頭がひねられたのか、そのためにどれだけ多くの資料が参照されたのか、それらを煮詰めるのにどれだけ多くのディスカッションが行われたのか、小道具一つを決めるのにどれだけのこだわりが注がれているのか、アクションの段取りや整合性がどれだけ細かく検討されたのか、それを実現するために技術スタッフがどれだけ試行錯誤を繰り返したのか、それにこたえる俳優たちがどれだけ頑張ったか。ほんの短いワンカットにどれだけ地味な労力がかかっているのか。これらを実現させるために必要なのは、おそらくひたすら「学習」と「努力」だと思われる。これらの作業の膨大さ、そこに投じられるエネルギーの量と、そして予算の大きさを考えるとクラクラする。
(おそらく、多くのハリウッド映画でも、同様の努力と情熱とお金とが注ぎ込まれているのだと思うけど、「多く観客に(抵抗なく)観られるものでなければならない」という制約によって、最後のところでそれが上手く一つの方向へと集約されなくなってしまうのだと思われる。そこに、製作者たちの「思想」が貫かれているかどうかという違いがあるのだろう。)
膨大な努力が、シンプルな方向というか目標に向けられて、ブレることなく累積され、集結される。天才的なひらめきとか、ユニークな作家性とか、そういうものとは違う、ひたすら地味で生真面目な、しかし大きなエネルギーを必要とする努力と作業の積み重ねによって得られるような種類の「密度」を感じた。
●ただ、このような「密度」は、例えばリズムをどこまで細かく分節化できるかとか、デジタル画像の解像度をどこまで高められるのか、という方向性に近くて、映画においてそれは、大きな資本とシビアな能力主義によって可能になるものだと思われ、ぼく自身が必要とし、そして目指しているのは、こういう種類の「密度」とは別の密度なのがだが。