●『スノーピアサー』(ポン・ジュノ)をDVDで。
最近のハリウッド映画には「格差社会」を戯画化したみたいな設定のSFがけっこうあって、ぼくの知る限りでは大抵おもしろくない。設定の時点で想像力が硬直した図式に囚われてしまっている感じになっている。この映画も、設定をみる限りではそんな匂いがプンプンしていて、観るのが怖くて、避けていた。人類が列車のなかに閉じ込められていて、後ろの方に貧困層の人たちがいて、前の方に富裕層や支配階級の人たちがいて、後ろの人が前へと攻めてゆく(それが「革命」だ)、みたいな話が面白くなるとは思えなかった。どう考えても世界観が古臭すぎるとしか思えない(実は最前列と最後尾が繋がっていた、みたいなオチも、容易に予想可能で、あまりにありふれている)。
ポン・ジュノはなんでこんな話を映画にしようとしたのだろうか、ポン・ジュノのはもともとガチで学生運動をやっていた人で、初期の短編には、社会批判を主な主題とした(というか、たんに「風刺」しているだけみたいな)あまり面白いとは言えないものもあるので、そのころの感じに回帰してしまったのだろうか、とか、そういう嫌な予感があった。
で、実際に観てみると、ポン・ジュノのもっともすばらしい作品とは言えないとしても、ちゃんとポン・ジュノの映画にはなっていたので、安心した。特に前半は、かなり面白かった。ポン・ジュノの演出家としての力量は、やはりかなり大したものだと改めて感じた。でもやっぱり、興奮した、ではなく、安心した、という感じであることは否定できない。
ポン・ジュノの映画の多くでは、横幅が狭くて、前と後ろにしか動けない制約の強い空間(団地の廊下や、川原や、溝のような)が舞台となっていて、そのなかで、どのように(拘束された前後への動きだけではなく)横への動きを実現するのか、ということが主な主題になっていて、その、動きの縦と横との交錯が映画としての運動をつくりだしている。さらに、デフォルトとして「排他的」な世界がまずあって、排他的であるという「基本設定」のなかで、その原理をどうやって裏切ることが出来るのか、という主題もある。そのような意味では、列車に閉じ込められ、車両によって分断されているという設定は、とてもポン・ジュノ的なものだとは言える(というか、あからさまにポン・ジュノ的でありすぎる、のだけど)。特に、線路が弓なりに曲がっているところで、前の車両と後ろの車両との間で銃撃戦が実現するところとかは、おおっ、そうくるのか、と思ってとても興奮した。
とはいえ、そのような空間的設定を可能にするための方便としての物語的設定が面白くないので、特に後半、舞台が富裕層の住むゾーンになってくると、面白さがかなり目減りしてしまう。お金持ち=退廃的みたいな紋切り型のイメージのなかをただ進んで行くだけ、みたいになってしまっていて(というか、空間的な拘束があまりに強すぎて、面白い展開や演出のアイデアが前半で尽きてしまっている感じ)、富裕層のゾーンでも、もう一つ二つ、何か面白い細部があってほしかった、と思った。最後の、支配者との対決の場面にしても、エンジンルームの空間の構築も、場面や演出の展開も、いま一つ面白くない感じだった。とはいえ、この感じは、この映画の設定のもつ拘束性の強さの問題と言うよりも、ハリウッド映画全般の「分かり易くしなければならない」という拘束性の強さの問題なのかもしれない。
そういう意味では、これ以上ないというくらい「分かり易く単純な枠組み」をあえて採用して、そのなかでどれだけ多様なことが出来るのかというチャレンジを、ポン・ジュノはしたのだ、ということなのかもしれない。ハリウッドで映画をつくるということは、この「単純さ」という強い拘束のなかで、それでも何かをすることが出来るのかという挑戦なのだ、と、ポン・ジュノが考えているのだとすれば、この、まったく面白くない設定を(あえて)選んだ意味も、わからなくはないと思った(前作の『母なる証明』が、あまりに複雑すぎる作品だったということもあるかもしれない)。そういう風に考えるのなら、これだけのことが出来たポン・ジュノは、やはり相当すごいということが言えると思う。
でも、そこまでしてハリウッドなのか、と、ポン・ジュノには、別のありうる進む道というのはないのだろうか、とも、思ってしまう。