●寒さで目が覚めた。パーカーを重ね着してまた寝た。今日はずっと寝ていた。DVDを返しに行くの忘れた。
●引用、メモ。『ドグマ人類学総説』(ピエール・ルジャンドル)「第一三章イメージあるいは聖/俗の分割」より。イメージの深さ。イメージを殺すこと。
《イメージについていえば、深さとは、人間に対してそのイメージを根底のところで支えるもののことです。そこにもやはり空虚の問題があるわけです。郵便配達夫シュヴァルについていわれた言葉を、形而上学的な事象としてのイメージに適用したいと思います。つまり、「虚無に打ち勝つ」ことが問題だということです。この点はよく考えなければなりません。》
《希望というのはわたしの得意なものじゃないですね。ただ、願いを口にすることならできますよ!人類が自殺しませんように、ということです。よろしいでしょうか、イメージとは死命を制する問題なんです。こうした命題の証拠、あるいは反証は、ひとにはイメージを殺す能力があるということです。自殺とはそれです。イメージの殺害のことなのです。アンシャン・レジームの法律家たちは、この問題をおぼろげにですけれども感じていました。かれらは正しい表現をしています。その意味は、今日からすれば、フロイトのおかげではっきりしています。かれらは、自殺者を一個の殺人者と考え、そのようなものとして断罪しました。自分を殺すということ、それは自己のうちの他人、自己のイメージを殺すということです。まさにこのイメージへの関係のうちで自己を正統なものとすることができないがゆえに、です。そして逆説的なことですが、自殺というのは生の名のもとに行われる行為であって、正統性の絶望的な肯定なのです。古典的な宗教は、イメージの正統性について働きかけながら、生を正統化するべく努めていました。生物学的な意味での生ではなく、イメージの生です。》
●テレビを観ていたら、海底深く、日本海溝に地震で出来た裂け目があって、理論的には存在が予測されていたそれが、潜水艇によって映像としてはじめて捉えられた、というその裂け目の映像が流れた。そしてその深海の裂け目に、なんと漂着したマネキンの頭が埋まっているのだった。人間がつくりだした「イメージ(しかもそれは人間自身の顔だ)」が、本来人間の目の届くことのない(人間のまなざしの存在しない)深海にまで到達してしまっていることに驚かされるのだが、さらに驚くべきなのは、人間が、自らの作り出した技術の力の拡張によってはじめて到着できた、それまで未知の領域だったはずの深海という場所で「それ(自分自身の顔)」を再度発見してしまうということだ。イメージがまなざしより先回りしてしまっている。90年代にゼメキスの『コンタクト』という映画があって、主人公のジョディ・フォスターが宇宙の果てまで行って、そこで見出すのが自分自身の幼少時代の記憶だったりするのだが、それに近い気持ち悪さというか、出口のない感じを感じる。人間が到達出来るところは、決して未知ではあり得ず、既に人間のしるしが刻まれてしまっている、というような。
●『殺人の追憶』(ポン・ジュノ)をDVDで。前に観た時よりもずっと面白く感じられた。おそらく、ポン・ジュノは、様々な要素を一本の映画のなかに放り込んで、ごた混ぜにしようとしているのだろう。映画全体としては、物語も主題も、全体としてのトーンもきわめてシリアスなものなのだが、それに対し、警察内部の人物の関係の有り様や描写などはあきらかにコメディのもので、そこには大きな齟齬が生じている。あるいは、ポン・ジュノにはあきらかに警察権力やその横暴に対する反感や批判的態度があり、刑事たちのキャラクターを半ば馬鹿にしたように戯画化しているのだが、しかし同時に、一人一人のキャラクターに対する思い入れや愛情なども強く感じられ、登場人物たちに対する態度に齟齬がある。ある意味、個々の場面には力を感じるものの、場面場面によって演出が場当たり的で一貫しておらず、ごった煮的なおもしろさはあるものの、作品としての一貫性に欠けている、いわばキワモノのような印象を感じてしまう。作品として上品ではないし、映画として洗練されていない、というか。しかし、おそらくポン・ジュノはキワモノとしてのおもしろさを狙っているわけではなく、きわめてシリアスなのだと思われる。このようなごった煮のような状態こそがリアルなのだ、実際に、韓国の田舎の警察のおっちゃんはリアルにこんな感じなのだ、ということなのではないだろうか。このようなごった煮のような形式によってしか、あの軍政時代の空気、あの事件の感触を、丸ごとは捉えられないのだ、と。
とはいえ『殺人の追憶』だけを観るなら、やはりキワモノ的なおもしろさからはそれ程大きく離れられてはいないように思う。しかし、その後の『グエムル』や『母なる証明』を観るならば、あきらかにごった煮でありながらも、様々な要素のモンタージュの仕方やその密度によって、そこには、ポン・ジュノにしか出来ない、作家ポン・ジュノの作品としか言えない感触が、確かに現れているように感じられる。それらの作品を観た後で『殺人の追憶』を観ると、なるほど、そういうことなのか、と思うところが多々あるのだった。