●京橋の映画美学校第二試写室で、スティーヴ・ジェイムス『スティーヴィー』。映画として、あるいは、ドキュメンタリーを撮る態度として、素材を編集するやり方として、この映画には文句をつけたいところが山ほどある。観ている間、この監督の映画作家としての才能を感じたところは一ヶ所もなかったと言ってよい。しかし、にもかかわらず、「結果として」この映画はとても興味深い、貴重な作品になっていると思う。この映画を観て感じるのは、世界のなかで起こる出来事の全て、世界のなかに存在する人物のあり様の全ては、皆必然性があり、そうでしかあり得ない理由がある、ということだ。あらゆる事柄は密接に関係していて、複雑な事情の絡まり合いのなかで必然的に「そのように」ある。この映画に出てくる登場人物たちは皆、互いに互いを映し出す鏡のようであり、その無限の反映が、ひとつの環境をかたちづくっている(表現している)ように思う。全ての出来事は繋がっていて、一つの出来事(一人の人物)がそのなかで突出しているようにみえたとしても、実はその出来事(人物)の突出自体が、その環境全体のあり様の、一つの表現のようなものなのだ。この映画は、とりあえずスティーヴィーという人物を中心にしているし、後半はスティーヴィーのみに視線を限定し過ぎているように思われるのだが、この映画の興味深いところは、スティーヴィーという人物を生み出した、その周囲ににいる人物たちに丹念にカメラを向け、話を聞くことによって、ひとつの環境のようなものを立ち上げているところだろう。
26歳のスティーヴィーは、親戚の8歳の女の子をレイプしようとしたとして訴えられる。この映画は、そのような人物であるスティーヴィーと、彼の義理の祖母、異父妹、その夫、彼の恋人、その母親、彼の母親、母親に捨てられた彼を引き取った里親、彼の友人、近所に住む人たち、被害者の母である彼の伯母、そしてこの映画の監督のスティーヴ・ジェイムス、その妻、その子供たち、が、どのように関係し関わるか、ということが綴られている。彼に関わる様々な人物をカメラに納めることによってみえてくるのは、たんに、少女をレイプしようとした男が、幼い頃母親から虐待を受けており、さらに母親から捨てられ、保護された施設でレイプされたという経験も持っているという「暴力の連鎖」を示しているだけでなく、彼を取り巻く様々な人物たちの置かれた(互いに反映し合う)状況であり、その感情の動きであり、それらによって織りなされた環境の立体的な提示である。彼は、彼を取り巻く環境のなかでは、必然的に今の、そのような男になるしかなかった。この映画がもたらすのは、そのような極めて冷徹な「認識」である。(観客は、登場人物の全ての感情の動きに共感することが出来るが、同時に、それらが歯車のようにかみ合ったときの関係の力学によって生じる出来事=悲劇の進行もまた「納得」せざるを得ないという、非感情的な「認識」も強いられるのだ。)しかしこのような「認識」は、誰も救わないかもしれないし、誰の「感情(苦痛)」を沈めることも出来ないかも知れない。そして、そのような「認識」を持ったとしても、それは、その「環境」を変える力にもならないかもしれない。例えば(この映画には登場しない)被害者の立場に立ってみれば、そのような「認識」を持つことより、加害者を悪魔のごとく憎んだ方が多少は気が晴れ、救われるのかもしれない。しかし、にも関わらず、やはり「認識」を持つしかないのだ。その事実を、この映画の登場人物のなかで最も賢明で理性的であると思われる、被害者の母親(加害者の伯母)の存在が示している。彼女は、加害者を罵り、憎しみながらも、彼がそのような者になるしかなかった必然性を認め、それを冷静に認識している。彼女の姉(加害者の母)が、加害者を虐待していたことを非難しつつも、彼女自身がそうであった貧しく悲惨な生い立ちから、その必然性もまた、認めざるを得ない。彼女は、姉を非難しつつ、姉を思いやり、加害者を憎みつつも、その必然性を理解する。この認識と感情の分裂は、決して彼女を救うことなく、苦しめつづけるだろう。「認識」は、人に安定した眠りや憎しみのなかに休らわせることなく、不眠のような覚醒(苦痛)を強いる。だとすれば、理性的な認識とは過酷な責め苦であるようにもみえる。(この映画を観ていて、ぼくは樫村晴香による次の言葉を憶い出していた。《後期ストア派の論理的帰結にあるのは、世界への冷静な認識が進めば進ほど、現在ある世界と人間の姿が必然的なものとして理解され、その汚濁と愚鈍さを含めて、そのようなものとしてあるしかない、全体の因果的関連と現在に至る経緯が、強固に自己主張しはじめる》《マルクス・アウレリウスは強大な権力を持ち、スピノザの言葉を転用すれば、最も「能動的」な存在だったが、しかし彼が直面したのは、認識と力が増えるほど、自己の手中に入らない膨大な制御不能領域が見えて来るという、極めて無力で受動的な状態だった。》)
この映画では、一方に、誰も救わないかも知れないが貴重なものとしての「認識」があり、もう一方で、人を救うのはやはり「愛」(という言い方が陳腐なら、精神分析的に「対象関係」と言っても良い)しかない、という認識も示される。なにより、監督のスティーヴ・ジェイムスにとって、この映画を撮ることの意味は、(一度は裏切って彼のもとを離れてしまったが)スティーヴィーと長い時間ずっと共に居るということであり、つまり、彼がどのような人物であろうと、無条件に彼の「味方」であろうとする、ということである。(それは被害者側からみれば許しがたいことかも知れないし、はじめからフェアであることを放棄しているということであるかもしれない。)あるいは、何があっても彼を受け入れる、かつて里親だった夫婦に会いにいったシーンでの、スティーヴィーの姿に涙しない者はいないだろう。おそらく人は、このような無条件の肯定によってしか「救われ」ない。(そのような無条件の肯定によってようやく、環境のなかでバラバラにくだけてしまう複数の感情の束を、辛うじて一つのキャラクターとして束ねられるのだ。)たとえ、それが実は欺瞞に過ぎないのだとしても。それがおそらく、この映画の一つの結論であるようにみえる。