オリヴェイラ『家路』

●ビデオが出ていたので、オリヴェイラの『家路』を見直す。こういうのが「巨匠の仕事」と言うのだろう。この映画によって捉えられた「街角」のざわめきや、佇まい、空気の震え、光、そしてそのなかをゆっくりと歩いて通り抜けるひとりの老人の姿は、こういうものを捉えるためにこそ「映画」というものが発明されたのだ、と思えるようなものだ。この映画は決して「力のはいった」ものではないだろう。例えば今年観たゴダールの『フォーエヴァー・モーツァルト』が、自身が長年かけてつくった『映画史』をも突き抜けるような驚くべき強度をもった、ゴダールがまた新たな段階へと差し掛かったことを示すような映画であったようには、『家路』に力がこもっているとは言えない。そうではなくて、むしろ力みのない、観る方がとまどってしまうほどのあっけない「軽さ」によって輝いていると言えるだろう。(だからと言って、仕事を放棄して「家に帰って」しまうこの老人を、簡単にオリヴェイラ本人と重ね合わせることは出来ないと思う。)この映画が自身の内に呼び込むことが出来た「街角」の表情の豊かなざわめきは、妻と子供夫婦を一挙に失って孤独となった、しかし当面の生活にも仕事にも困らないでその「孤独」に充分に充足しているような人物にのみ、親しく顕れてくるような種類の豊かさである。この老人は俳優であり、イヨネスコやシャークスピアの舞台に立っている。しかし、映画においては基本的に演劇は虚構(映画内部での虚構)として充分に成立しない。映画に撮られた演劇は「舞台」という明確なフレームを持つことが出来ないからだ。(カメラは、舞台の外から舞台を撮り、舞台の上から舞台を撮り、舞台の袖からも舞台を撮る。だから舞台=演劇というフレームは簡単に侵犯されてしまう。この侵犯によって例えばミュージカル映画などが可能になるのだ。あるいは『エスター・カーン』のような映画が、映画内現実と映画内虚構=演劇とを明確に区別するために払っていた繊細な配慮を思い出されたい。勿論、ルノアール的混濁とかも。)つまり、シェークスピアの舞台が映画内部で虚構として自律することは出来ず、人物は役柄に扮しセリフを言う俳優=登場人物として存在することになる。そこで喋っているのはプロスペローではなく登場人物である俳優ヴァランスであり、しかもそれは誰もが知っているミッシェル・ピコリでもある。言い換えれば、カメラによって捉えられた舞台上の人物は、幾分かはプロスペローであり、幾分かは俳優ヴァランスであり、幾分かはミッシェル・ピコリでもある。このようなフレームの曖昧な揺れ動きによって、あるひとつの老人の孤独な生の持続なかにイヨネスコやシャークスピアが(そしてミッシェル・ピコリが)不可分なものとして自然に混ざり込んでゆく。(まるでマティスの絵のなかで、絵のなかの「実物」と、絵のなかの「絵に描かれたもの」、とが基本的に区別が出来ず、異質でありながら同等の権利と強さを主張していて、そのことによって空間に多様なニュアンスが生まれる、のに似ている。)つまりそれは「ひとつの生」として同一平面上の出来事となる。この映画によって拾い上げられる街角のざわめきは、そのような「生の形態」が世界を通過することではじめて浮かび上がるようなものだろう。しかし、『ユリシーズ』の映画撮影においては、彼は虚構の存在としての役柄を演じることを要求される。(メイクを施し、カツラを被り、つけヒゲをつけるという、長いシーンが挿入される。)しかし彼の生はもはやそのようなことを受け入れることが出来ないので、「家へ帰って」ゆくのだ。