吉田秀和『セザンヌは何を描いたのか』

●古本屋で吉田秀和の『セザンヌは何を描いたのか』(白水社)というごく薄い本をみつけた。これがとても面白かった。簡潔で平明な文章で、セザンヌの一枚一枚の作品について鋭い分析がなされてゆく。しかも、とりあげられている作品のほとんど全てについて、モノクロながら図版がそえられているという親切なつくりだ。さすがに、つまらないうんちくに逃げることなく、個々の作品を執拗に「観る」という態度に貫かれて書かれた、とても迫力のある力作『セザンヌ物語』を書いた人のものだ。これは「セザンヌ入門」として最適なものであるというだけでなく、「入門」を遙かに越えた刺激的な考察に満ちている。
●まずなにより面白いのは、吉田氏が絵画における3つの層の分離というものがあると指摘し、セザンヌがその分離と統合とを明確に意識しながら制作していたとするところだろう。「ここに、横何センチ、縦何センチの方形のカンヴァスという空間(広さ)がある。そのなかにセザンヌはいつもの細かな空間の集積からなる一つの芸術的空間をつくった。その芸術的空間に向きあった私たちは、それを見ながら、私たちの日常生活のなかでの空間感覚でもって、それを解釈--つまり、そこに安定とか不安定とかその他の感情を移入しようとする。」つまり、まずリテラルな物質としてのカンヴァスの平面の拡がり(グリーンバーグの言う「平面性と平面性の限界づけ」)があり、そこに画家によって色彩と形態で構築されたある情報の塊が重ねられ、そしてそれを観る人によって、その上から、それを観、読み込むことで頭のなかに構成された「ある感覚」が重ね合わされる。(正確には、これらは全て観者によって読みとられたものである。つまり「リテラルに読みとられたもの」「図像として読みとられたもの」「感覚として読みとられたもの」なのだが。なお、普通に使用されるイリュージョンという用語は、この2つめの層のことなのか3つめの層のことなのかはっきりしない。アメリカ型フォーマリズムによる分析装置の曖昧さは、この辺りにも出ている。)絵画には、いつもこの3つの層の分離がある、と吉田氏は言う。セザンヌからも吉田氏からも離れて、もっと一般化してパラフレーズすると、一枚の絵には必ずそれ固有の大きさ(何?×何?)があるのだが、この大きさと、そこに描かれているものの大きさとは関係がない。小さなカンヴァスに大きなものの図像を描くことも出来るし、大きなカンヴァスに小さなものの図像を描くことも出来る。さらに、そこに描かれたもの(図像)のもつ大きさと、その絵を観た時に感じられるスケール感や空間感の大きさとは、また別のものであるだろう。大きなカンヴァスに広大な風景を描いたからといって、必ずしも絵画作品として「大きな空間」を獲得出来るとは限らない。ごくごく小さな絵から、とても大きく広々とした空間を感じたとしても、実際に観ているその絵のサイズが小さいものだということを、観ている人は知っているし見失うこともない。つまりこの3つの層は分離していながらも同時に存在して(意識されて)いる。セザンヌが「自然」から受け取った「感覚」を「実現」させるのだと言う時、前の2つの層、つまりリテラルな拡がりと、その上に重ねられる色彩と形態とを操作することで、3つめの層として「ある感覚」を実現させるということを言っていると考えられる。(だから絵を描くということは、多分に「遠隔操作」という感覚があるのだ。)勿論このような事柄は、画家ならば誰でも知っているのだろうが、それをセザンヌほど徹底して考え、大胆に実践した者はいないと吉田氏は言うのだ。セザンヌの絵は、決して印象派のようには「光」を追っかけているわけではないのに、そこから圧倒的な光が感じられる。木の葉の一枚一枚が描き込まれているわけではなく、ただ縦、横、斜めのタッチがあるだけなのに、そこから無数の葉が揺れてざわめく様が感じられる。さらに描き込めるはずもない、海から吹き付けてくる風の感触さえも感じられる。3つの層がぴったりと重なっているとしたら、光を描くためには光を追いかければよいはずなのだし、風を描くためには「風に揺られているもの」を描くしかない筈なのだが、そうではないということなのだ。セザンヌの絵は、はっきりと「光」も「葉」も「風」も描いてなどいないと言い切れるのに、しかしその絵からはその全てが感じられる。これは決して「神秘めいた」何かではないし、たんなる印象でもない。ここで「光」や「風」は、「奥行き」と同様、個々の要素の配置や混合などによって「構成された」ものとしてあらわれている。絵は、「花びら」や「唇」を描くようには「奥行き」を描くことは出来ないのだが、要素同士のある配置や混合によって奥行きという「感覚」を発生させることは出来る。例えば、セザンヌ静物画の多くは空間が大きく歪み、それをひとつのパースペクティブのもとで統一的に見ようとすると「吐き気」さえ感じてしまうほどに我々の空間感覚=平衡感覚を揺さぶるのだが、それを一望のもとに眺めようとはせず、つまり画面の上を視線が「流れる」のではなく、ひとつひとつの細部を点として触れるようにして捉え、点のようにその都度その都度で捉えられたもの(イメージ)たちが頭のなかで混じり合って一つの感覚として構成し直される時にはじめて、セザンヌに独自としか言えないようなある空間の感覚が浮かび上がってくるのだ。
●以上のことをふまえた上で、ティントレットを参照しつつ、セザンヌの『キューピットの石膏像のある静物』(1895年)や『赤いチョッキの少年』(1894-5年)といった作品を具体的に分析してゆく部分は、この『セザンヌは何を描いたのか』という本のなかで最も興味深く、充実した部分だと思う。