●「ユリイカセザンヌ特集の平倉圭のテキストがすばらしい。平倉さんが絵画を分析したテキストは、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」についてのものとマティスの「夢」についてのものを読んだことがあり、どちらも面白いのだが、このセザンヌについての分析はとりわけすばらしいのではないか。単純に、ここまで正確に、絵画を(絵画を観る経験を)言葉によって記述、分節することが可能なのだということに感動する(平倉さんは「驚くべきこと」を書いているのではなく、セザンヌを観ている時にごく普通に起こっていることを「驚くべき精度」で記述、文節している)。分析はここまでつっこまないと意味ないんだなあ、と。ここでは、セザンヌを観るという経験の内実がたんに説明されるだけではなく、あるいは、そうそうセザンヌってそういう感じなんだよなあと納得させられるだけでなく、経験が分節されることでより精度の高い経験へと導かれるような分析なのだと思う。意識化されるということが納得(分かった気になる)に着地するのではなく、それより先へ行くための光として作用するような。
勿論、ここで書かれていることでセザンヌのすべてが説明されるわけではないにしろ(たとえば、セザンヌの「塗り残し」をここで書かれている《周期構造の一部》として吸収し切ることはできないのではないかと、ぼくには感じられる)、このテキストによって少なくとも今までよりも確実に数歩、セザンヌに近づける。
●「空間周波数」という言葉は初めて知ったけど、なるほどという感じ。平倉さんのこのテキストでの分析はそもそもデジタル画像の圧縮についての知識に基づいているのか。以下は、ウェブでみつけたざっくりとした説明。
http://tt.sakura.ne.jp/~hiropon/lecture/jpeg.html
http://www1.kamakuranet.ne.jp/smo/proctalk/talk10.htm
●ただ、平倉さんは挑発的に、セザンヌの絵は《レイヤー状のパッチが重ねられていくテーブルのような空間ではない》と書いているけど(冒頭の、セザンヌが写真を見て描いていたという話はここにかかるのだろう)、やはり、キャンバスに油絵の具で描かれている(層状の構造になっている)のだから、「層」という要素を完全に無視してしまうことは出来ない気がする。そして、「塗り残し」は、周期構造と層構造の両者を巻き込むものである気がする。この点についてはセザンヌ展で意識して観てみようと思った。
●以下に引用する部分は、セザンヌについてであると同時に、それを越えてもっと大きな射程をもつ平倉さん自身のヴィジョンなのではないかと感じた。
《後期セザンヌの風景画は、世界の記録ではない。絵画は世界に対して閉鎖されている。にもかかわらずセザンヌが、これこそが「感覚」なのだ、ここに「感覚」が「実現」されているのだと言う時、そこでは次のことが意味されていると考えることができる。デコードされるべきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。私たちの身体は、自然史において、進化的に特定の仕方でエンコードされている。ガヴィングが見ようとしたのは、この特定の仕方でエンコードされた「感覚」の秩序である。だがそこにはアナグラムのように、他なる身体が潜在している。私たちの日常的身体こそが暗号なのである。その身体はバラバラに砕かれ、デコードされ、新たな形式へと「翻訳」されなければならない。絵画の多重周期構造は、私たちの身体を破砕的デコードのプロセスへと巻き込んでいる。》
●わたしたちの身体に、既に(自然史によって)、アナグラムとしてエンコード(圧縮)されている他なる身体をデコード(解凍)すること。世界は暗号として身体内に潜在的に描き込まれている。
●三月に撮った写真。その二。